香港のパールシー(Parsee)2
モディ氏(Sir Hormusjee Nowrojee Mody)
九龍半島チムシャッチョイ、海岸線から山側二つ目を東西に走る道路、モディ・ロードはこの人の名前から来ている。当時香港開発はもっぱら香港島が主だったがモディ氏は九龍の将来に目をつけ1860年に九龍半島が英国に割譲されると早速多くの土地を取得。 一方セントラルの埋め立てを進め、香港の株、金市場の活性化にも努めた。またフィランソロピストとしての活動も顕著で、1908年には九龍クリケットクラブ、湾仔に兵士海員ホームを創設し、1912年香港大学創設資金調達の功績に関してSirの称号を与えられた。
ルットンジー家(Jehangir Ruttonjee)
湾仔の真中を東西に走るクイーンズ・ロード・イースト(Queen’s Road East 皇后大道中)。その東端に十数年昔さびれたサナトリウムがあった。 律敦治(ルットンジー)と何語か不明の謎めいた名前だがその設立費用を調達した人の名前だったのだ。今は建て直されて近代的で立派な病院になっている。ファミリーはその後も同じ敷地内にある結核心臓病協会の会長を務め病院経営にも関わり続けている。企業家の
鑑。不動産など多くの企業を起こしその関係か香港で初めて低所得者向け住宅建設に貢献している。1913年には香港初のビール工場を創設。後にサンミゲル社に売り渡されたがビールの大手シェアとして香港市民に親しまれている。息子のデュン(Dhun)は1960年インド系として初めて選ばれた香港立法議員の二人のうち一人。
シュロフ家(Shroff)
香港の駐車場料金支払い所は何故かどこもシュロフ(Shroff)と呼ばれている。不思議に思ってきたのだが、これは英国統治下のインドで英国から財務を任されていたパールシーのシュロフ家からきている。 1897以来香港のパールシーでは最大のファミリー。 当主のジャル・シュロフ氏は香港・広東・マカオ・ゾロアスター教慈善財団の会長の他、生徒数1万3千、17校を擁する名門英国系小・中高校、イングリッシュ・スクールズ・ファウンデーションの会長も務める。
こうしたパールシーたちのゾロアスター教。紀元前6世紀古代ペルシャのアケメネス朝に始まり、その首都ペルセポリスが当時最大級の国際都市として栄えた頃アジア、アフリカ、ヨーロッパにまで勢力を広げ、古代ギリシャと戦いアクロポリスを焼き、その後アレキサンダー大王率いるマケドニア軍に敗れ、そしてイスラム勢力に追いやられてインドに逃れ、と気の遠くなるような歴史を引きずって今香港の生活の様々な場で息づいているのだ。
ゾロアスター・ビルの中国名が「善楽施大厦」というのはいかにも名訳。 ここにオフィスを構える慈善事業は香港のみならず中国やかつてのパールシーの拠点ボンベイを中心にインド各地で病院や低所得者用の住宅を寄付するなど活発な活動を続けている。
|
香港大学旧館正面。中央の塔は補修工事中の為やぐらが組まれています。 |
|
トーク帽をかぶったお髭のモディ氏。香港大学設立90周年を記念してゾロアスター教慈善財団から寄贈されたモディ氏の銅像が大学正面の階段にありました。 |
|
香港大学中庭に面した廊下。高い天井、古いタイルを敷き詰めた床とア
ーチがコロニアル風。 |
|
ルットンジー病院。 |