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【11月16日号】【11月9日号】【10月6日号】【10月2日号】
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11月16日
ハロウィーン
毎年10月31日のハロウィーンが近づくと子供たち(最近は若い大人も)は今年はどこのパーティーでどんな
扮装しようかとあちこちのパーティーショップを物色しはじめる。
20年近く前、イギリスに1年ほど滞在していた頃初めてハロウィーンなる物を知ったのだが、元来キリスト生
誕まえのアイルランド・スコットランド・フランス北部のケルト族の祭事だったという。 ケルトの新年は11
月1日に始まり、秋の収穫が終わったこの日を境に夏が終わり暗くて寒い冬が始まる。 厳しくうっとうしい冬
は”死”を思わせ、大晦日に当たる10月31日には若者たちがターニップなどの野菜に彫り物をしたお面を被
り村を練り歩いた。 普段はあの世でおとなしくしているお化けや妖怪、魔女たちがこの大晦日にどっとこの世
に押し寄せ、作物を荒らしたり、家畜を殺したりといろいろな悪さをするのでお払いのために村のあちこちで大
きなたき火をして悪霊たちに無事お帰り願った。 イギリス滞在中のこの時期、たまたまアイルランド人のお宅
に下宿していたのだが近所の子供たちが Trick or Treat に来るのでキャンディーを用意して訪れた子供たちに
振る舞っていた。 子供たちも家のあちこちから魔女の乗る箒やお化けの仮装用の白い布を探してきて、暗い夜
空を見上げ、「コウモリが飛んでる」とか「魔女が見えた!」とか言いながらお化けごっこを楽しんでいた。
でもハロウィーンそのものはどちらかというと静かでその後の大きなたき火が印象的だった。 古代のケルト人
は盛大なたき火に作物や家畜を投げ込み生け贄とし、悪霊たちにこれで勘弁してねとお願いしたのだ。
こうしてみるとこのハロウィーン、時期はちょっとずれるし、趣も全然異なるが日本のお盆を思わせる。 日本
では迎え火や送り火、お供え物等で亡くなった家族やご先祖様にしっとりとした思いを馳せる。 香港でも盂蘭
節といって若い人たちは "Chinese Halloween" と呼んでいるがハロウィーンと時期はかなり近い。 こちらで
は悪霊だか善霊だか分からないけどこの時期になるとあちこちの公園などに竹枠で組んだ大きな掘っ建て小屋を
建て、おきまりの派手派手しい飾り立てをし、エツ劇 (エツの漢字は日本語にない。北京の京劇に対する広東
バージョン)の会場となり、しばし住民の娯楽の場となる。洋の東西を問わず厳しい自然と対峙する農耕民族の
自然に対する畏敬を感じさせる。
イギリスから帰国した当時の日本ではハロウィーンの話なんて誰もしなかったからすっかり忘れていたが、香港
に来て子供たちが幼児グループや幼稚園に行き出すと今度は子供を通じて戻ってきた。この数年は毎年子供たち
の友達をよんでホーム・パーティー。 まず、黒のビニールクロスを壁や家具に張り巡らし、そこに魔女、お化
け、コウモリ、黒猫、月、星、お化け屋敷等の絵を描いて切り抜いたものを適当に貼り付ける。 そして真っ黒
のクロスを敷いたテーブルに黒やオレンジの蝋燭を何本も燭台に並べ灯を灯し、周りの要所要所には骸骨やコウ
モリのおもちゃをぶら下げたり、クモの巣を張ったり、ネズミ、ゲジゲジ、フランケンシュタイン等をちりば
め、こわーい効果音のCDをかけると完全にハロウィーンワールド。 毎年少しずつ足し続けてここまで派手に
なってしまったけど、絵が小学生向きで10歳といえども今年中学生になった次男には可愛らしすぎてちょっと
物足りなくなったので、来年までにはティーネージャー向きに描き直さなくては。 それでも Trick or
Treat に来てこれを覗いた子供たちは感嘆して帰って行く。
ハロウィーン・パーティー用の子供向けメニューというのもあり。吸血鬼の血を思わせる真っ赤なドリンク、ソ
ーセージにポッキーを突っ込んで魔女の箒に見立てたもの、ミイラを思わせるスペアリブ、お化けの形に焼いた
メレンゲのデザート等が人気があり、オレンジのパーティー皿に黒いナプキンを敷いて、骸骨やかぼちゃなんか
のピックと一緒にサーブすると効果的。
8年前にこの団地に越してきた頃、中国人にはあまり馴染みがなかったらしく Trick or Treat に行くとポカン
とされ、説明すると家中お菓子を探してくれてそれでもないとちょっと前の月餅(結構高価)、鉛筆、果てはお
金までもらって来て子供たちはおおはしゃぎ。 きっと子供のいない家庭なんだろうけどありがたいなあと思
う。 また日本人のお宅だと高価な日本のお菓子にキャラクター商品をつけたり、可愛い袋にリボンをかけたり
して豪華版。 ある年などはうちに来ていた10人ほどの子供全員がその豪華版を頂いてきてそのお宅の出費は
いかばかりかと心配になった。
子供たちと魔女、骸骨、お化け、墓石、なんかの型押しでクッキーを焼いてパーティーの準備をするのも結構楽
しい。 ことに次男がチョコレート味とバニラ味を組み合わせて作るふくろうのクッキーには嘴や足まで付いて
いてなかなかの傑作。 だけどこの子も後2ー3年でオークランドに行くつもりにしているらしい。 こうした楽
しみも後わずか、か。
毎年ハロウィーンが近づくと行ってみたいと思いってたのがウエスタン地区 Hight Street にある旧精神病院。
ビクトリアかエドワード朝の石造りの建物で前面のアーチ型回廊が重厚で美しい。 第2次大戦中日本軍占領
下ここで日本軍の拷問に遭って殺された人たちの怨念がこもっているとか、精神病院時代に狂い死にした人たち
の霊が浮かばれないまま漂っているとかで、夜になると今でも近くの住人には叫び声が聞ける??? 廃虚にな
って久しく、荒れるに任せて毎年取り壊しが決まっては反対の声が上がり、早く見に行かなくてはと思っていた
ところ、最近永久保存が決まり、2001年までに工費 HK$3億5千かけて9階建てのコミュニティーセン
ターにする工事が始まった。 もともとの建物は2階建てで前面の回廊以外は全て崩れ去っており、完成予定モ
デルを見ると味気ない建物でがっかり。 高度成長の邪魔とばかり香港のこうした歴史的建物はどんどん朽ち果
てては取り壊され残念でならない。 コミュニティーセンターも大事だけど本当は絶対的に不足している美術
館、博物館、劇場などにしてしゃれたレストランやアートショップ等を併設し広く市民に楽しめるようにして欲
しかった。 ま、それでも今残っている部分だけでも保存されることになってよしとすべしか。 経済成長マイ
ナスになり駆け足でやってきた暮らしを振り向き今まで置き去りにされていた何かが見えてくるのを待とう。
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11月9日
中秋節 (Mid Autumn Festival)
このところオフィスでやけに果物が飛び交っているなと思っていたら今度は月餅が缶ごと飛んできた。そうか、し
のぎやすくなったと思っていたら10月5日は中秋の名月。
この日はたいていのオフィスは3時頃で閉め、みな家路を急ぐ。なぜかというと親戚中が集まってご飯を食べる
から。とにかく中国人はこうやってみな集まってご飯を食べるのをとっても大事にする。日本でも昔はこうした
風習が沢山あったと思うけど盆と正月以外はすっかりすたれてしまい残念。もっとも香港でも住宅難、核家族化
が進んだ昨今大勢が家に集まってご飯を食べるというのが難しくなったので、たいていの人はレストランでいつ
もより大きなテーブルを囲みわいわいご飯を食べる。中華料理店のこの丸テーブル、ご存知ですか?土台になる
テーブルの上に必要に応じた大きさの丸い板をのっけてテーブルクロスをかけてあるだけ。その上に料理を載せ
てぐるぐる回るガラスを重しにして安定をとっている訳。片付ける時は丸い板を立ててごろごろと転がし壁の後
ろなどにペタンとしまえるのでほんとに合理的。
この中秋には大昔、(広東語の発音でいうと)ションオー(漢字は常と我にそれぞれ女偏をつけたもの)という
美しい女房が亭主の持っていた不老長寿の薬を飲んで永遠の美を求めたところ月に飛んでいってしまったという
伝説があり、どうも竹取物語の原形らしい。陰暦の8月15日の中秋の明るい月夜には(ウサギの餅つきなら
ぬ)この永遠の美女ションオーの姿が月に見られるそうな。
中秋の特別な料理というのは特にないそうだけど月餅と季節の果物は必須アイテム。月餅はあんこの中に蓮の種
や木の実、なつめ、そして卵の黄身がゴロンゴロン入っていて日本で売っている物よりずっと大振りでリッチ。
一人でいっぺいに一つは食べられません。最近はヘルシー嗜好とかで、小振りの物やあっさり味の白い月餅、緑
茶餡の物も出回ってきた。漢の時代に攻め込んできた北方民族を追っ払うため武将たちが戦略を月餅の中に隠し
て中秋の挨拶として味方に配ったため敵に怪しまれることなく、めでたく国を取り戻したといういわれがある。
月餅について我が家で特筆する出来事あり。、長男が5歳の頃のある年末にラストエンペラーに扮して翌年用の
電話帳のテレビコマーシャルに出演した事があり、新聞や雑誌にも結構載ったのだが、そんなことも忘れていた
翌年の中秋が近づいたある日、夫が広州のスタッフに貰ってきたというお土産になんとこの長男のラストエンペ
ラーがプリントされた月餅の缶を持って帰って来たのだ。もちろん中国の事だからコピーライトなんてまったく
おかまいなしに勝手に作ったもの。この缶は今も長男の学習机に大事に飾ってある。
果物の典型的な物としてザボン、これは発音が豊饒の神様にお祈りする言葉に似ている事から秋の収穫を祝うこ
の時期必ず食べるものらしい。その他、もうすっかり定着した日本の20世紀梨やむつなどのりんご、中国の雪
梨、ニュージーランドのキーウィー、オーストラリアのぶどうやいちご、カリフォルニアのオレンジ、台湾のみ
かん、フィリピンのマンゴ、タイのパパイヤや切り口が星型のスターフルーツとまことに国際的。それに加えて
最近ますますエキゾチックな果物が登場、今年始めて見た物に「火龍果]があります。英語名は不明。
ホントに不思議な果物で生け花やアートに使いたくなるような物体です。「火龍果」とはホントに上手につけたと
思います。鮮やかな濃いピンクの皮はとってもトロピカルで、玉ねぎ(かチューリップ)をこぶし二つ分くらいの
大きさにして縦に程よく引き延ばし、龍の火が燃え上がるように張り付いた花弁のような皮が先っぽだけめくれて
いるの。分かるかしら?
もともとは収穫の後、果物籠を下げて実家や親戚を訪ねたのでしょうね。日本の盆暮れよろ
しく業者がお得意先に届けるご挨拶にもなっている。景気が悪くなったけど今年も立派な果物籠が連日大量に届
けられ、食べきれない果物を毎日せっせと家に持って帰って子供のお土産。この日は普通に仕事したりのんびり
買い物なんかしてたら大変な交通麻痺に巻き込まれたりするので速やかに帰宅する事。
この中秋節、ランタン・フェスティバルとも呼ばれ、夜の帳が下りる頃大人も子供の思い思いの提灯を手に山の
頂や公園に集まり長く厳しい夏の間の労働からしばし開放され待ちかねた秋を迎えるのです。鳥や魚、船など伝
統的なランタンに加え、子供たちに人気があるのはその年流行ったウルトラマンやハローキティー等のキャラク
ター商品。我が家の子供たちも小さかった頃は浴衣や甚平を着て電気でピカピカ光る剣を振り回して団地の庭を
夜遅くまで汗だくになって走り回っていたものです。こうして中秋の夜は皆夜更かしをするので翌日は祭日、粋
な計らいです。
オフィスが移転する前は近くにあった西武デパートの花屋さんで日本の秋の花を求めて楽しんだものだけど今は遠
くなってしまったので、もっぱら団子。今年はあいにくの雨模様だったけど帰宅してからみたらし団子とあんこ
ろ餅を作ってビクトリア・パークを望む大きなバルコニーのある長男の小学校時代からの友達マークのお宅にお
よばれして厚い雲の後ろで輝いているであろう名月を”鑑賞”。我が家の長男はオークランドの寄宿学校に飛ん
でいってしまったけど、ありがたい事に今でも何かと声をかけてもらっている。中国人のお宅だと親戚中が集ま
ってお客さんどころじゃないけれどこの友人一家はご主人、キースが香港在住20数年の英国人、奥様のエイド
リアンはスリランカ出身で幼い頃家族と香港に移住、その後彼女の家族は英国やオーストラリアに再移住、香港
に残ったのは彼女だけ。従って、このマーク一家も我が家同様香港に親戚がないのでクリスマスや旧正月等の祭
日に気楽な家族同士が楽しい集まりをするのです。マークはいずれ英国の大学に進学する事になるでしょうけ
ど、それより先に我が家の長男が先に飛び出すとわねえ。オークランドとは時差4時間だからもうグーグー寝て
いる時間だけど彼の宿舎には今夜明るい満月が照っているでしょうか。
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10月6日
「Rennie's Mill」
10月1日は国慶節。 昨年中国に返還になってからこの日と翌日は二連休。 今年は週末と10月6日の仲秋の祭日に飛び石でつながり、待望のロング・ウィークエンドでほっとしたところです。 毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言してから49年。 かつては北京で軍隊パレードがあり香港市民は複雑な思いで眺めていたものですが、84年からなくなり、復興を予定していた矢先の89年に天安門事件が起こり近年は戦車に替わり縁起を担いでこの日に結婚式を挙げ記念写真を撮るカップルでにぎわっているそうです。
一方、香港では英国軍隊から引き継いだ人民開放軍(PLA)の基地を今回初めて一般公開し12、000人の人出となりました。 これをすっかり忘れていて、人に頼まれていたものをスタンレー・マーケットまでうっかり探しに行き、スタンレー基地への行き帰りのすごい人出に遭ってしまいました。 ほうほうの体で家に辿り着き夜うとうととしているといきなり、バリバリバリバリと大音響。寝ぼけ眼には家も響いて戦争が起こったよう。 バルコニーから覗いてみるとビルの間からかすかに見えました派手に上がっているHK$650万の花火。 これを23分間で全部上げちゃうんだからうるさい筈です。確かにすごい壮
観だけど、去年の夏千葉のしょうなんファミリーに連れていってもらった手が沼の花火、プログラムに沿ってひとつあるいは数個づつ丁寧に味わって楽しめる方がいいなあ。
この日、私はサンディーのことを思っていました。 彼女は15年前私が香港に来て初めて住んだコーズウェーベイの雑居ビルの隣のフラットの住人で、初めて出来た友達です。 慣れない土地で夫はほとんど常に不在、初めての妊娠、出産。 子供は生まれても話の相手にならないし、訳もわからずむやみに昼夜なくぎゃーぎゃー泣いてばかり。 相談する人もなく、行く所もなく毎日あっちの窓に立って港に浮かぶ船を眺めたり、こっちの窓に立って汚いビル群にため息を吐いたりして「窓立ち病」の孤独な日々を送っていたのです。 長男が生まれて3ヶ月ほど経ったある日ふとしたきっかけで言葉を交わすようになり、当時やっと1歳になったばかりの彼女の一人息子クリストンを連れていっている教会の Mothers & Toddlers Group に誘ってもらいました。 そこでいっぺんに沢山の友達が出来、長男はそのまま赤ちゃん時代の多くの友達と幼稚園、小学校、中学校と進学、母親たちは子供が幼稚園に行くようになってから、コーヒーモーニングをしたり、後に仕事を始めるようになってからは金曜の夜レディースナイトにでかけたり、時には父親達も加わって全員でピクニックやクリスマスパーティーをしたりと、思ってもいなかったほど楽しい香港生活を送れるようになり、サンディーにはとても感謝しています。
サンディーは英語と広東語の他にご主人がドイツ人なのでドイツ語も、そして両親が北京出身なのでマンダリンも完璧。小田急線の登戸にも半年間住んだことがあり日本語も少し。 49年前国民党だった彼女のお父さんはお母さんとともに北京を逃れ、香港に難民としてやって来て苦しい収容所生活の後、Rennie’s Mill に小屋を建てサンディーを頭に4人の子供を育てたのです。 香港には Rennie’s Mill の他にもいくつかこうした治外法権的な難民部落があり、そこでは部落で学校や集会所、道路や橋まで建てコンフースターを数多く生み出し、香港の映画界にも大きな影響を与えています。 それでも生活は厳しくすべての子供に高等教育を受けさせられないので、最年長で頭のよさそうな子をまず養成してその子が後の弟や妹の教育を援助するのです。 サンディーのような長姉は「家姉」と呼ばれ絶大なリーダーシップを執り忙しい両親のかわりに弟や妹の面倒を見、堪能な語学を生かした彼女は英国航空のスチュワーデスとして働くかたわら家族の生活と妹二人の学資をずっと援助してきたのです。 彼女のこうした家族とはよく食事等を一緒にしたのですが、その頃もうお年で弱っていた両親の面倒をみたりする姿には頭が下がる思いでした。 まさに家長そのもの。 ご主人の貿易会社も手伝い、家事、育児と、どんなに疲れていてもいやな顔も見せずいつも明るく、てきぱきとした彼女の姿勢にはいつも元気を分けてもらっていました。 その後、ご両親は相次いで亡くなり、彼女は家長として Rennie’s Mill の家を相続したのです。
が、返還を控え、香港政庁はこうした元国民党の部落民全てに退去命令を出し、補償金、または代替住居を提供するということで返還前にはすっかり姿を消しました。 これに先立ち彼女の弟妹も全てカナダに移住し、それを見届けたかのように彼女もご主人とドイツに移住。 補償金等の交渉のため彼女も年に何回か帰って来、その度に律義に訪ねてくれます。 交渉は今また暗礁に乗り上げ元住民600人あまりは総額HK$1、080億ドルを要求。 彼らは家を失っただけでなく自ら築き上げ1961年に永住を保証された部落から追われた困難を訴えています。 サンディーの故郷、彼女の両親の思いが深く残る Renni
e’s Mill の問題解決が待たれます。
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10月2日
「ネパールのお祭り」
香港の治安を支える影の力持ちにネパールの旧英軍グルカ兵がいます。19世紀の初頭当時インドを統治していた英軍がネパールを責めた際かろうじて勝ったものの、グルカ兵の勇敢さに舌を巻き、以来味方に取り入れて返還までの香港の英国軍隊の貴重な戦力になっていたのです。
当時は七千人ぐらいいたそうで、子供のラグビーで時々遠征に行った新界の軍隊基地内に彼ら専用の宿舎があり、家族用の小さい家も沢山並んでいてお昼時になると名物の激辛カレーの店が出て皆楽しみにしていたのですが返還の1年前には引き上げてしまいました。
30代で引退し一旦帰国した彼らの一部は、今度は単身で民間警備会社でボディガードや警備要員としてあちこちのビル、デパート、宝石店等で働いています。目立たないけれど新空港にもも200人以上詰めています。 中国人のビル管理要員は夜になるとグーグー寝ちゃたりサボったりする人がいて困るのですが、軍隊で鍛えた元グルカ兵は絶対に居眠りなんかしないし非常に頼もしい。しかし彼らはおおむね小柄で礼儀正しくにこやかでさえあり、この人たちがそんなに勇敢で戦に強いなんてちょっと信じ違い感じがするのですが、ネパールは元々多くの王国で成り立っており、そのうちの一部族グルカの王様が統一するまで部族抗争を重ねてきたのです。現在は実際には他の部族の人も多く含まれているそうですがグルカという名はそんな所から発生
しています。
ネパールには仏教とイスラム教徒も多いのですが一年で最大のお祭りはヒンズー教のDashain。これは邪悪の巨人に正義の女神が勝利をおさめることを祝うものです。 祭りは10日間続きその間歌や踊り、ごちそうで祝いクライマックスは9日目の動物の生け贄。陰暦によるので、毎年時期が多少ずれるのですが今年はその9日目が9月30日。 水牛、ヤギ、鶏、アヒル、羊、がそれぞれ、怒り、欲望、臆病、冷淡、愚かさの象徴にされ部落のあちこちで殺されるのだそうです。もっとも香港じゃ(今やRoyalのRがとれた)SPCA(動物愛護団体)がうるさいのであまりおおっぴらには出来ないのですがグルカ兵舎に特別に設けられた場所で執り行われていたらしいです。今は兵舎も無くなったのでどうしているのでしょうか。最後の10日目には家の長老が家族全員の額に小麦粉とヨーグルトを混ぜて色をつけたTikaを塗り祝福する。
Dashainと並びもう一つの大事なお祭りはTihar。これは富の女神を祭りDashainから18日後に行われ満月までの5日間家々の戸口や窓にマリーゴールドの花輪を飾りオイルランプを灯す光のお祭り。 この間ネパール中でギャンブルがおおっぴらに行われ国外のグルカ兵はこれまた兵舎に特別しつらえた場所でする事が許されていたそうです。これも今はどうしているのかな? Tiharはまた姉妹と兄弟の絆を強める機会でもあり姉妹が兄弟の額にカラフルなTikaを塗り戦に行く男たちの無事と勝利を祈り、戦国時代が長かった事を思わせる。
毎年この時期にこのお祭りの招待を受けていたのだけど昨年初めて参加してみてとても興味深かったので今年も出かけていきました。場所は九龍クリケットクラブの屋外プールサイド。 ネイザン・ロードの雑踏からほんの2ブロック外れただけなのに青々とした広い芝生のクリケット場は別世界のよう。クラブハウスからプールに向うクリケット場の横を通り過ぎていく間にあっという間に秋の日のつるべ落とし。そうか、暑い暑いといってる間にいつのまにか秋の気配は訪れていたのだ。プールの入り口付近には空缶のオイルランプが杭の上に並びすっかり暗くなったあたりにちらちらと風に揺られながら素朴な火を放ってこっちだよと呼んでいる。入り口ではなぜかスコットランドのキルトに身を包んだおじさんがバグパイプを奏で、いや何故って事ないブリティッシュ・ミリタリーはこれが好きなんだ。警備会社の人は元グルカ兵じゃない人でもたいがい英国軍隊か警察出身。
主催者のマネジメント陣や昼間の勤務を終えたグルカのおじさんたち全員ネパール帽を被りとっても接待上手。カクテルの合間に社長氏のスピーチ。そしてブッフェ形式のネパール料理。サフランライスと色んなカレー、炭火焼きバーベキューチキンがとってもおいしかった。その後お楽しみのネパール・ダンス。彼らはタイ人のように必ず優雅に合掌して始めるのがいい感じ。 豪華で美しい衣装もあるけど腰にスカーフを巻いた山間民族らしいさっぱりした衣装がなんとも好ましい。 のんびり聞こえる曲のテンポは結構速くターンや小刻みなジャンプが続く踊りは相当の運動量だろうけどそれを軽やかに、しなやかに、そしていかにも楽しそうなこのネパールの踊りすっかり気に入ってしまった。インドやタイの踊りと通じるものも多いようだけれど、もっと素朴で日本人にしっくりと馴染むような気がする。 グルカのおじさんペアで独特のナイフを持っての戦いの踊りもなかなかよかった。
山肌の段段畑や水田耕作などは日本と変わらない様だけど山岳民族の暮らしは貧しく厳しい。医療や教育も立ち後れ女性の平均寿命が世界一短かったような気がするし、学校教育を受けられないまま一生を終わる人も少なくない。 2、3年前 English Foundation Schools でネパールの子供たちにおもちゃや文房具、衣料品等を届けようという運動があり、我が家の子供たちもせっせと学校に色んな物を運んだり寄付したりしてたっけ。 物資を運ぶスポンサーも付き、セカンダリースクールの生徒何人か代表で届けそのなかに当時の総督クリス・パテン氏の三女のアリスもいて、帰りの飛行機が飛ぶの飛ばないのって騒がれていた記憶がある。 苦しい暮らしを支え将来に貯えるためグルカのおじさん達は二年の契約期間中一度も里帰りしないで家族と離れ今日も頑張る。 いや、今晩は踊りだ。
それにしても彼らは全員踊りがうまい、毎日稽古してるんじゃないかと思いぐらい。最後はゲストも加わって。 あら、さっきのスピーチの社長氏、ネパール音楽に合わせてスコティシュ・ダンス!今年は私も入れてもらおうと思ってたのにさるコンピュータ会社の人のスパイ大作戦並みの捕物帖の話を聞いているうちに終わってしまった。 グルカのおじさんって探偵もするのね。
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