目 次
【9月13日号】【9月3日号】【7月31日号】
【6月28日号】【3月22日号】【2月10日号】
【1月31日号】【1月24日号】【1月15日号】
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「警報機の恐怖」
英国の家の多くは、防犯用に警報機が取り付けられている。家を留守にする 時にセットしておくと、センサーが家の中のわずかな動きも検知して、警報が 鳴る仕組みになっている。要は、空き巣を防ぐためのもので、警報機が鳴 り出すと近所の人が駆けつけ、空き巣をつかまえてめでたしめでたし、「付け ててよかった、警報機!」ということになるのだが・・・
先日、日本人の友人Kさんが一週間のホリデーに出かけている間に、この警 報機が鳴ってしまった。本来、近所へ異変を知らせるためのものなので、 その音といったら、近くにいたら耳をつんざくけたたましさで、かなりの広範囲に まで響き渡る。これを止めるには、家の中に入って、スイッチを切るしかないの だが・・・
不運にも、Kさんは家の鍵を誰にも預けていなかったので、警報機は無情にも 朝から夜中まで24時間以上鳴り続けたらしい。当然、神経を逆撫でされるような けたたましい警報を一日中聞かされた近所の人は、イライラが募り、夜も眠れず、 怒りはピークに達した。ほとんどの日本人赴任者は、不動産屋を通して家を借りて いるので、こんな時は不動産屋がいち早く駆けつけ、処理してくれるのだが、K さん宅は日本人の前任者の持ち家を不動産屋を通さずに借りていたので、手の 施しようがなく警報機は鳴り続けてしまった。
翌日、Kさんのご主人の会社に近所の人から電話があり、その内容たるや「これ 以上警報機を鳴らしておくと、裁判に訴える。」というものだったというから、その 剣幕がいかほどのものか、容易に想像できる。
電話を受けた会社では、八方手を尽くしてKさんの行き先を調べたが誰も知らず、 携帯電話も通じず、家の持ち主で、今は日本に帰国した前任者を探そうにも、ど こにでもよくある名字で絞り切れず、お手上げ状態になった。この一大事は奥さん の交友関係にまで、瞬く間に広がったが、残念なことにだれも行き先を知らされて いなかった。
結局、鍵を壊して警報機を止めるプロを雇い、ようやく警報機は鳴り止んだ。会社の 人の配慮で、新しく作り替えた玄関の鍵は隣の人に預けられ、その旨を知らせる 手紙が玄関に張られ、Kさんがいつ帰ってきても家に入れるようにして帰りを待った。
そんな騒ぎから、一週間が過ぎた今日、Kさんから電話があった。
「テニスのレッスンを始めようと思うんだけど、一緒にやらない?」なんと暢気な・・・ 「え?それよりも大変だったわね、どうだった?」と、ご近所の反応を聞いたつもりが、 「うん、大丈夫だったよ。なぁーんにも盗られてなかった。」そんなことを聞いたんじゃ ないと思ったが・・・
「あ、そう、よかったわね、それで、ご近所へは謝りに行ったの?」
「うん、10軒くらいかな?チョコ持って、頭下げて来たよ。」
「それで、どうだった?」ようやく本題に入った。
「うーん、あなたが悪い訳じゃない、って言ってくれた家もあったけど、機嫌の悪かった 家もあったかなぁ?でも、ぜぇーんぜん大丈夫。旅行中にわかっていたら、旅行も 切り上げて帰って来なきゃいけなかったんだけど、帰ってきてから知ったことだから、 旅行は旅行ですんごく楽しかったし・・・、よかったって思ってるの。」とあくまで自己中心的。
確かに、警報機は風による窓の揺れや煙突から入ってきた虫や蜘蛛のわずかな 動きにも反応するので、Kさんが悪かったわけではないのだが、近所の人が被った 被害や会社への多大な迷惑を気にも止めていない彼女のケロッとした態度に、 留守中あれこれ心配していた私は急に怒りがこみ上げてきた。この図太さこそが、 これまでの彼女の長い海外生活を支えてきたのかもしれないし、反対に海外生活で 培われたものかもしれないが、彼女に限らず、私が海外赴任の先輩奥様方の多くに 疑問を感じる部分であり、おつきあいの上で満足しきれていない原因のひとつでもある。
我が家では今後おそらく警報機のスイッチをONにすることはないだろうと確信した。
「ロシアへの旅 3」
ロシアの長い歴史や政治について十分な予備知識もなく、ただエルミタージュと ネギ坊主の建物を見て、異文化の香りに触れたくてロシアを訪れた訳だが、先日 の原子力潜水艦クルスクの沈没事故で、ロシアの威信、軍事機密・・・など、旧 ソ連時代の体質を今も引きずっていることが露呈され、改めてこわい国を旅した ものだと思った。で、再度ロシアの記憶を思い起こしてみると・・・(前述とダブってし まったらご勘弁を・・・)
1)まず、びびってしまったのが、入国審査。
一人5分間くらい、顔を蛍光燈で照らされ、入念にパスポートをチェックされ、 まるで、警察の取り調べにあっているような緊張感が走った。(もちろん、私に その経験はありません。念のため。)
もう一つ、何とも不気味というか、恐ろしいのは、その審査官が全員カーキ色 の軍服と、なんと!時代遅れのミニスカートを身にまとった「女性」であること。
ニコリともせずに、じろっと向けたその視線の鋭さ、冷たさ、ううぅぅぅ・・・・小さい頃、 おかあさんに「女の子はいつも笑顔でいなさいね」って言われなかったの?審査 の終わったパスポートを受け取るときは、さすがに背筋がゾクッ・・・・
カーキ色の軍服で思い出したが、クレムリンでは、あちこちにこの軍服姿の 警備員(こちらは男性)が立っていて、横断歩道からわずか半歩でも踏み出そう ものなら「ピピピピーーーー」と鋭い笛の音が響いた。ところが、踏み出した張本 人は、おしゃべりに夢中になっているお気楽な観光客がほとんどで、自分が注意され ているとは夢にも思っていない様子・・・カーキ色の軍服が泣いていたような・・・
2)街中での会話
前述したとおり、ロシア人の英語は、ほとんど中学1年レベル。ホテルの中で すら、案内書に「英語はあまりできませんが努力します。」などと断り書きが あった。にも関わらず、街で出会ったロシア人は、外国人を避けるどころか、 ロシア語で堂々と話しかけてきたりして、ロシア語のわからない私にとって、 それはそれで困ったのだが、日本人もこの度胸だけは見習いたいものだ.。
3)ロシアの通貨
先ごろの通貨危機で大変だったようだが、今は落ち着いていて、街中の自動 支払機で、ルーブルもドルも引き出すことができた。しかし、ロシア通貨の持ち 出しについては、今も厳格に禁止されている。それに政府が通貨安定策として、 発行制限をしているようで、外貨の持ち込みに関しても、入国時に税関に申告 して、さらに出国時にも申告して審査を受けなくてはならず、非常に面倒くさい ことこの上なし。そういう訳で、空港の両替所は、他国に比べて大変混み合って いたように思う。
また、現在は禁止されているが、ドル紙幣もかなり出回っていて、ホテルの領収書 も、メインはドル表記になっていた。
かつての敵対国に通貨依存しているとは、
何とももはや・・・
4)物価の安さ
思いつくだけでも、地下鉄16円(大人も子供も同額)。バス8円。煙草一箱120円。 440mlのビール一本34円。1.5リットルのミネラルウォーターが50円・・・と、まあ、 ざっとこの安さ。
極めつけは、モスクワからサンクト・ペテルブルクへの約8時間半の夜行寝台特急の 一等車が、2300円。思わず安い!と唸ってしまった。しかしこの安さ、さぞひどい寝台 列車だろうと思いきや、これがなんとめちゃ快適。一部屋二人用で、日本と 違いちゃんとドアが付いていて、しっかりと内側から鍵もかかるという優れ物。シ ーツもブランケットのカバーもクリーニングされていて、朝食まで付いていたから驚き。
他には、ボりショイサーカスが一人200円。3時間半もの間、片時も観客を退屈さ せることなく、手に汗握る演技あり、ユーモア抜群のお笑いあり、最後はライオン ちゃんまで出てきて、ロシア語がわからなくても十分楽しむことができた。
一方、観光地では、エルミタージュ美術館の入館料が一人1000円。クレムリンが 890円。武器庫が960円・・・と、外国人向けの入場料はロシア人の約10倍だった。
(チケット売る場には、堂々とロシア人用と外国人用の入場料が2段に表示してある。)
5)公園風景
西へ伸びる幹線道路の脇に、戦没者を弔う大きな(東京ドームよりもずっと大き そうな)公園があり、この中で遊んでいる子供たちを目にした。が、乗り物は、ぶら んこでもすべり台でもなく、使い古しの戦車や装甲車。最初は、いいのかなーと 思って眺めていたのだが、まぁロシアだからなぁ、と妙に納得してしまった。
6)ちょっと失礼!トイレ事情
駅や観光地の公共トイレは、便座がとても汚い。トイレットペーパーで満身の力を 込めてきれぃきれぃしても、とても座る気になれず、娘と私はホテルまでぐっと 我慢の日を送っていたが、ある日、どうにも我慢できなくなって飛び込んだトイレで、 祈るような思いで便座を見ると、やはり例外なく汚い。うぅぅぅーしかし、今日ばかりは 我慢出来ないと思い、便座とにらめっこしていると、なんと、そこにはくっきりと靴 のあとが・・・ なるほど!汚いわけだ。
7)黄色い水
息子が2日目からひどい下痢をし、続いて娘と私。そして夫までもが腹痛に悩まされた。 もちろん水道水は飲んでいないし、何が原因なのか?旅行中はわからなかったが、 帰国後、ロシアへ何度も出張経験のあるYさんにその話をしたところ、彼は洗顔も 歯磨きもミネラルウォーターでしているとのこと。それと、「生野菜のサラダかもしれま せんね。水道水で洗っていると思うので・・・」と言われた。しっしまった、そんな盲点が あったとは・・・
しかし、ロシア人は大丈夫なのかなぁ?
ざっと思い起こしてみてもこんなにいろいろなことがあった。今だからこそ、もう二度と 出来ない貴重な体験だったと言えるが、道中は決して生易しいものではなかった。しかし、 驚異や緊張の連続ほどおもしろいものはないと思った旅でもあった。
「ロシアへの旅 2」
空港からホテルへ向かうタクシーの車窓には、遥か彼方まで見渡せる広大な 土地が広がっていた。視界を遮る物が何もない、どこまでもどこまでも続いて いそうな国土。改めてロシアの広さを実感した。タクシーは片側4車線くらいは あろうか?なにしろ車線が引いてない上に、所々舗装されていない道路を、ガタン ガタン土煙を上げながら右に左に縫うように走った。行き交う車のほとんどが信じ られないほど古くてポンコツで錆だらけ・・・中には、エンジンルームをむき出しに しているバスや日本では間違いなくスクラップだと思えるような車が堂々と走って いて、思わず目を疑ってしまった。私が小学生のころ、そう、30年前の日本を 見るようだった。
8階のホテルの部屋から、たくさんの人で賑わっている場所が見えたので、 地下鉄の駅の下見を兼ねて、出かけてみることにした。ホテルの中は、外国から の観光客で華やいだ雰囲気だが、一歩街へ出てみると、その身なりや表情から 市民生活が決して豊かではないことが一目でわかった。
地下鉄の駅へ行くには、人一人やっとすれ違えるほどの細くて長くて暗い工事中 の地下道を通らなければならず、裸電球が一つぶら下がっている中、どの人も ハンドバッグの口をしっかり握りしめて足早に通り過ぎて行った。駅のまわりには、 果物や新聞・雑誌類、靴下や日用品を売るおばさん達の露店がたくさん出ていて、 ストッキング1枚買うのに考え込んでいる若い女の子の姿があった。また、物乞い をする人もあちこちにいて、暗い気持ちになってしまった。とても、かつて世界を 二分した大国とは思えない現実がそこにあった。
賑やかに見えた場所は、ガイドブックに「全ロシア展覧会センター」とあったが、 現在パビリオンに展示はなく、広い敷地内のあちこちに衣類や食べ物を売る店や 遊園地が設けられていて、かなりの人出で賑わっていた。
ちょうどお腹も空いてきたころで、肉と野菜を長い串に刺して焼いている店が目に 入り、思わず英語で「2本ください。」と言ってみた。が、しかし、あれれ?通じ ない。仕方がないので指でVの字を作り、何とか2本買うことが出来たが、歩きなが ら食べようとすると、ロシア語で何やらペラペラ捲し立てられた。お金もちゃんと 払ったし文句はないはずなのに、串を持とうとすると、またペラペラ・・・どうした ものか?と困惑していると、お店の横に並べられたテーブルの一つに、私の串刺し は運ばれ、どうやらここで食べろと言っていたらしいことがわかった。そう言えば、 空港まで迎えに来てくれたタクシー運転手のお兄さんも英語が通じなかったし、 この串刺し屋のお兄ちゃんも若いのに英語の数すら通じなかった。日本の英語 教育が問題にされているが、この国は日本の比ではないのかもしれない。
ホテルへの帰り道、駅前の売店でロシア名物ピロシキを1つ12円で買い、その 物価の安さに驚かされたり、また、ホテルでは、お風呂に張ったお湯が黄色だったり、 トイレットペーパーの質の悪さにも驚かされた。
とにかく、モスクワでの第一日目は、これまで経験したことのない連続で、今後の 不安とちょっぴりの好奇心を私に抱かせた。
「ロシアへの旅 1」
近隣のヨーロッパの国々を旅行していると、景色や街並み、建造物などが あまりにも似ていて、(少々おこがましいが)どこへ行ってもいっしょやん! という気になってくる。そこで今回は、異文化を求めてモスクワ〜サンクト・ ぺテルブルク6泊7日への旅を計画した。しかし、この旅行は最初から最後 まで、いや、出発する前から気の休まる時がないほど様々な出来事、ハプ ニングに見舞われ、不安と驚異と緊張の連続だった。
話は遡るが、クリスマスから続いていた夫の咳がインフルエンザではなく、 自然気胸という病気だと判明したのが1月下旬。ドクターから重い物を持つこと と飛行機に乗ること(気圧が違うため)が禁止され、絶対安静で自宅療養する よう言い渡された。
以前から一度訪れてみたいと思っていたロシアだが、ビザを取得するためには パスポートを一週間預ける必要があり、突然の海外出張が珍しくない夫にとって、 それは不可能に近いことだった。ところが、夫は渡りに舟とばかりに、即座に ビザ申請の手続きをし、不可能だと思っていた最大のハードルを難なくクリアー してしまった。
一難去って又一難。夫の病状も快方へ向かい、心はロシアへ飛んでいた2月 中旬。何の前触れもなくかかってきた一本の電話で、わが家はいきなり現実に 引き戻された。
それは、魔女のミセス・べニーワースからだった。わが家の不動産屋は、年輩 の女性3人だけで運営している小さな会社で、普通の家のガレージを改造 した狭い事務所には、3人の強烈な個性がひしめき合っていて、わが家では ここを「不動産屋」とは呼ばず、「魔女の館」と呼んでいる。ミセス・べニーワース は、いつもの甲高い声で「How are you?」と言った後、「明日、他社の不動産屋が 家を見たいって言うんだけど、都合はどうかしら?」と言う。「ええ、家にいるから いいですよ。」と答えたものの、頭の中は、?で一杯になった。なぜ?何のために?? そして翌日、オーナーが家を売却するために4社の不動産屋に家の査定を依頼 したことがわかった。かくしてわが家は、引っ越しを余儀なくされた。要するに「追い出し」 をくらった訳だ。
引っ越しは5月15日と決めたものの、その2週間前にはオランダへチューリップを 見に行き、そして引っ越しの2週間後には、いよいよロシアが控えていた。ネコの手も 借りたいほどの忙しさの中、私を悩ませ驚かせたのは、ロシア行きの種々の手続きの あまりのひどさだった。話には聞いていたが、これほどお粗末だとは思わなかった。な にせ、ロシアの旅行会社から届いた家族4人分のビザの申請書類は、性別、誕生日、 パスポート番号がでたらめで、どうしたらこれだけ間違えられるのか?と思うほど何ヶ 所もの不備があった。その上、航空券にも間違いがあり、出入国には一際厳しいロシア に、こんないい加減なことで入国できるのだろうか?とだんだん不安になってきた。 それでもビザは、早め早めに手を打ってきたので、間違いを赤で訂正して送り返し、 出発前に正しいビザを手にすることができたが、航空券の方は、出発の2日前に届 いたため、当日空港カウンターで差し替えなければならなかった。
わが家は団体行動が苦手で、いつも往復の航空券とホテルのみを予約し、自由気まま な旅を楽しんでいたのだが、今回は言葉の問題、治安の心配、それにロシアから サンクト・ペテルブルクへ夜行列車で移動することなどを考え合わせ、往復の航空券と 夜行列車のチケット、空港と駅へのタクシーの送迎、それとホテルが組み込まれている ロシアのツアーに申し込んだ。ところがこのツアー、驚いたことに出発と到着の 空港が違っていた。こんなことが信じられるだろうか?行きはヒースロー空港から飛び 立つが、帰りはガトウィック空港に到着するという。いつも車で空港まで行き、パーキ ングに駐車しているのだが、それができない。こんな経験は初めてのことだった。
とにかく、出発前からこれでもか!これでもか!というほど押し寄せてくる難問に、 それでもロシアへ行くの?と自問自答しながら必死で立ち向かい、それに引っ越しが 追い打ちをかけ、精神的にも肉体的にもへとへとの状態でロシアへ向けて飛び立った。
しかし、モスクワへ到着した途端、出発前のこんなゴタゴタなどまだまだほんの序の口に すぎないことだと気付かされた。
「イギリス人がなにさ!なんやっちゅうねん!」
英国社会に一歩深く踏み込んで生活してみると、今まで知らなかった便利な システムがいろいろあることに驚かされてしまう。
例えば、鉄道料金。わが家の最寄りの駅からロンドンまで、普通に往復切符を 買うと20ポンド80ペンス(1ポンド200円計算で約4160円)だが、「ネットワー クカード」なるものを20ポンド払って作り(1年間有効)、切符を買う際、水戸黄門 のご印籠のごとく、ちらっと見せるだけで、往復料金+ロンドン内の地下鉄一日 乗り放題の切符が、約3分の1の料金(確か、7〜8ポンド)になる。その上、一枚 のネットワークカードで、大人三人まで同一料金、子供は四人まで、な、な、ぬわ ぁーんと、わずか1ポンドという、信じられないような特典が付いている。一年に 3回もロンドンへ行けば、完全に元が取れるわけで、これを知らないと大損をす ること間違いなし。
それから、いつ行っても長蛇の列で、2時間〜3時間待ちの「マダムタッソー蝋 人形館」も、事前に電話でチケットの予約をしておくと、一足飛びに入館できる。 他には、日本でもお馴染みの「メンバーズカード」。買い物をする度にポイントが 加算され、還元されるシステムで、私がいつも利用している大型ショッピングセ ンター「テスコ」では、3ヶ月に一度、買い物料金に見合ったバウチャーが郵送 されてくる。これは主婦にとっては、ささやかな喜びで、いつもは安いワインしか 買わない私も、この時ばかりは、少々奮発して高いワインに手を伸ばしている のが常だ。
おっと、前置きが長くなってしまった。
駐車場を同じくして「テスコ」の隣に、品質、価格、サービス共、一般的に「テス コ」よりワンランク上で、食料品から家庭用品、衣類、家具まで扱っている郊外 型某大型ショッピングセンターがある。わが家は子供の制服のほとんどをここ で調達しているので、例の「メンバーズカード」の恩恵に与ろうと思い立った。が しかし、不思議なことに、日本人の友人の誰に聞いても、この店のメンバーズ カードを持っていないし、その理由も明確ではなかった。そうなると、俄然張り 切ってしまう私。「よぉーし、日本人で初めて、ここのメンバーズカードを作って やるぞ!」と、意気込んで出かけた。
レジのおばちゃんに尋ねると、「お客様カウンターで取り扱っております。」と、 丁寧に場所まで教えてくれた。大抵、他の店では、レジで申し込み用紙を もらい、その場で住所、氏名、電話番号などを書き込めば、その日からカード が使えるのだが・・・「うーむ、ここは、やはりワンランク上なんだ!」と思いなが ら、お客様カウンターへ行った。
「メンバーズカードを作りたいのですが・・・」と、自分でも驚くほど流暢な英語で カウンターのお姉ちゃんに言うと、「あちらのソファーにお掛けになってお待ち 下さい。すぐ、係りの者が参りますから。」と言う。「あれれ?申し込み用紙が ほしいだけなんだけどなぁ・・・まぁ、ワンランク上だからしょうがないか!」など と思いながら、取りあえず、ソファーに腰掛けて待つことにした。
ところが、5分経ち、10分経っても、誰も現れる気配がない。15分経過した時点 で、私はシビレを切らし、立ち上がった。「急いでいるので、申し込み用紙だけ ください。」と言う私を、手で制するような格好をして「わかってます。あなたが 言いたいことはよーくわかっていますから、もうしばらくお待ちください。」と言い、 やおら受話器を取り、どこぞの内線につなぎ、そのお姉ちゃんは、こう言ったのだ。 「英語のしゃべれない、チャイニーズが待ってるから、早く来て!」
その瞬間、私は思わず「チャイニーズ?」と大声で叫んでしまった。お姉ちゃんは 慌てて「えっ、ジャパニーズ?チャイニーズじゃなくて、ジャパニーズなの?」 と言い、電話口で訂正していたが、長々待たされたあげく、自分ではうまくしゃ べれたと思っていた英語を「しゃべれない」とバカにされ、おまけにチャイニーズ に間違えられた私は、ほとんど切れそうになった。
「こらっ!、言葉に気をつけなさいよ。英語はしゃべれなくても聞くことはできるのよ。
いったいこの店の社員教育はどうなってるの?それに、あなたの店の社長夫人は、 ジャパニーズでしょうが!」と、威勢のいい啖呵を切りたかったが、情けないことに 英語にならなかった。・・・トホホ
イギリス人がなにさ!なんやっちゅうねん!
「Dish Washer」
ここのところわが家は来客ラッシュで、3週続けて週末に夫の会社 の方をお招きしている。単身赴任中のYさんは、営業畑だけあって 話題が豊富で話がおもしろく、何度来ていただいても飽きない方だ。
赴任直後で現在B&B(ベッド&ブレックファースト)に滞在中のSさ んは、今、家探しの真っ最中。そしてロシアから出張中のAさんは、 奥様がロシア人のため家庭で日本食を食べることができないという 話を聞き、夫が是非にとお誘いした。
英国には、日本のようなファミリーレストランやコンビニがない上に、 中華のテイクアウェー(テイクアウト)も、決しておいしいとは言えな い。ロンドンにはたくさんある日本食レストランも、この界隈には一軒 もないので、一人暮らしの男性にとっては少々きびしいものがある。
だからなのか、どの方も私の下手な田舎料理を喜んでくださるので 嬉しい限りなのだが、ただ一つ困ったことがある。
まず、英国の台所のシンクは日本の約半分。いや、それ以下かも しれない。とにかく信じられないほど狭い。その上、水道の水が飛 び散らないように?蛇口がかなり低い。小皿や小鉢をたくさん使う 和食では、シンクがあっと言う間に汚れた食器の山となり、水道も 使えないような状況に陥ってしまう。
出来ることなら、私も一緒にテーブルを囲み、グラスを傾け、会話を 楽しみたいのだが、それをしてしまうと、後で悲惨なことになるので、 仕方なく空いた食器を片っ端から下げながら、ひとり黙々と洗い物を することになってしまうのだ・・・
しかし、どう考えてもおもしろくない。それに何度も中座するなんて、 お客様にも失礼だし、何か良い手はないものか?そもそも、食器を 洗うように出来ていない、このシンクに問題があるのでは?と考えた 私は、自然にシンクの斜め下にかなりのスペースを占拠し、大きな 顔で居座っているDish Washerに目が行った。
過去に一度だけ使ったことがあったが、専用の洗剤ではなかったた めか、あまり効果がなく、結局手で洗い直したことがあった。その後、 英文の取り扱い説明書を読むのも面倒で、その存在すら忘れ、無用 の長物と化していた代物だ。
えぇーい!どっかと腰を落ち着けて、大好きなビールを飲むためな ら、英文の説明書の10ページや20ページ・・・なんのそのまり、と 辞書を片手に奮闘することにした。
なるほど、なるほど、石灰分の多い水を中和するために塩を入れ、 仕上げにリンスも使うって?なになに、金縁の食器は金が剥がれ てしまう?わが家に金縁の食器なんてあったっけ?などと思いなが ら読み進むうち、アルミや木製品には使えないこと,、ましてや塗り のお椀なんか、とんでもないことがわかった。
ガスオーブンと同じくらいの大きさのDish Washerは、内側がステン レスで出来ていて、二段に仕切られている。平たいお皿は立てて、 カップやグラスなどは斜面に伏せて並べるようになっていて、お鍋 やフライパンを入れるスペースもある。ナイフやフォークを立てる バスケットも付いている。ワイングラスを下向きに固定できるアイデ アは、まるで外国製品みたいだなぁ〜と思い、苦笑してしまった。
ダイヤルを合わせ、スイッチONして待つこと1時間。恐る恐る開けて みると中からムワ〜と湯気が出てきた。そうだった。洗って濯いだ後、 熱湯で消毒し、乾燥までしてくれるのを忘れていた。湯気の中から取り 出した熱々の食器は、リンスの効果でどれもツルッツルのピッカピカ。
ご飯のガリガリもお急須の茶渋もきれいすっきり。手洗いではどうしても取 れなかったカットグラスの溝に溜まった汚れまで、跡形もなく消えていた。 世の中にこんな便利なものがあったなんて・・・それにしても、 一年半もの長い間、この便利さを知らないで過ごしてきた私は、なん ておばかだったんだろうと、しばし後悔した数分後、、まるで打出の小槌を 手に入れたような気分になり、これからは、いつでも何人でもWelcome! ビールも私を待っている、と思うと、ぐわっはっはっはっとお腹の底から 笑いがこみ上げてきた。
「サンタの国のクリスマス 3」
フィンランド最終日のこの日、昨年のナイアガラ旅行を彷彿とさせる ような出来事に遭遇してしまった。
予定では、16時45分発の国内線でロバニエミからヘルシンキへ 飛び、乗り換え時間わずか30分で国際線に乗り換え、そのまま ヒースローへ帰ることになっていた。
航空券を予約する時、旅行会社のお姉ちゃんが「同じフィンエアー の飛行機なので乗り継ぎOKです。万が一遅れたとしても、待ってて くれますから。」と言うので、こんなタイトなスケジュールにしてし まったのだが、予定通り飛んだとしても国内線から国際線までの 移動を考えると、かなりきびしいものがあった。
恐れていることは的中するもので、飛行機が遅れているとのアナ ウンスに、青くなってしまった。「待っててくれますから。」と言った お姉ちゃんの言葉に一分の望みをかけて、ヘルシンキに着いたら 一番先に降りれるように、出口に近い席を確保するため(全席自由 席)、ゲートの先頭で待機し、子供には、飛行機から降りたら一目散 に国際線のゲートまで走るように言い聞かせた。
イライラしながら待つこと25分、ようやく搭乗を開始し、機体が動き 出したのは、予定時間を40分も過ぎていた。スチュワーデスのお 姉さんも「到着したら、即、空港係員に言ってください。無線で連絡 して、離陸していなければ、出発を遅らせますから。」と言うので、 まだ飛び立ってもいないのに、いつでも走り出せる体勢を整え、緊 張して構えていた。
ところが、ところがこの飛行機、空港内をゆっくり一周しただけで、 そのまま止まってしまった。「えっ、どうして?なぜ飛ばないの?」 と思っていると、コックピットのまわりが何やら騒がしい。しばらくす ると、「エンジントラブルで運転を見合わせています。」とのアナウン スがあり、一分の望みも絶たれてしまった。
乗客の中に、他の航空会社のエンジニアらしき人もいて、その人も 加わり、5,6人で相談している様子だったが、それがまるで 週末のゴルフの打ち合わせでもしているのではないか?と疑いたく なるような楽しそうな雰囲気で、時に笑い声まで聞こえてきた。スチュ ワーデスのお姉さんもにこやかにキャンデーを配りながら、乗客から の質問に当たり障りのない返事をし、乗客も信じられないくらい落ち 着いていて、私ひとり、頭に血が逆流し、湯気が出そうだった。
結局、そのまま飛行機の中で1時間待たされた末、700円分の食 券を手渡され、空港ロビーで約4時間待たされることになった。 さすがの私もここまで来ると諦めがついた。昨年のナイアガラでは、 ツアコンのおばちゃんに言い寄る場面やチケットの熾烈な争奪戦を 目の当たりにしたので、こうなったらエッセーネタを探すしかないと 思い、あちこち見回してみたが、今回はビールを飲みながら歓談し ている人達がいるかと思えば、ノートパソコンを開いて仕事をしてい る人、本を読んでいる人、はたまたトランプで遊び始めた若いお姉 ちゃんグループがいたり・・・と、まるで何事もなかったかのようなな ごやかな雰囲気で、決してエッセーネタには使えそうにないので、 がっかりしてしまった。
予定より約6時間遅れてヘルシンキに到着し、フィンエアーが用意 してくれたホテルの部屋に入ったのは、2時を回っていた。翌朝は 5時半に起床し、無事英国に帰り着いたが、この時ひいた風邪で家 族全員寝込んでしまい、ミレニアムもお正月もぶっ飛んでしまった。
「もう、寒い時に寒い国に旅行したくない。」と、娘が日記に書いていた が、私も全く同感。わが家の教訓にしようと堅く心に誓った。
「サンタの国のクリスマス 2」
ロバニエミでの2日目は、スノーモービルを運転してスノーランドで半日 過ごす現地のツアーに参加した。
朝10時、集合場所へ行くと、まず地下室に案内され、防寒着に着替え るように言われた。大から小まで様々なサイズの中から自分に合った 防寒着と靴を選び、靴下、マフラー、帽子を身につけ、ヘルメットもかぶ った。なるほど、これなら例え半袖で来ても参加できるし、お揃いの防 寒着なので他のツアーと見分けがつくし、一石二鳥という訳だ。
スノーモービルは、一人乗りと二人乗りと大型そりを引いていく3種類が あり、前日の申し込みの時に、「運転は難しくないですか?」と尋ねると 「アクセルとブレーキしかないから、very easyよ。」と受付のお姉ちゃんが にこやかに言うので、夫と私が子供を一人ずつ後ろに乗せることにして、 二人乗りを2台借りることにしていた。
このツアーの参加者は50名くらいだっただろうか?簡単な運転説明の 後、夫が娘を、私が息子を乗せて、さぁ、出ぱーつ!と思いきや、アクセル を回しているのにちっとも出発しない。あれれ?と思い、グイッとアクセル を回した瞬間、急発進して「キャー」という悲鳴と同時に、転げ落ちそうに なりながら走り始めた。
前の人と付かず離れず、15メートル位の間隔で縦一列で走るようにとの 説明だったが、気がつくと前を走っていた夫と娘がかなり小さくなっていた。 インストラクターのお兄ちゃんが後ろから猛スピードで走ってきて、私と並 んで走りながら「speed up!speed up!」と大声で叫ぶ。「わかってる。わ かっているんだけど、恐くてスピードが出せないのよ。」と言いたかったが、 それを言う余裕さえなかった。目を大きく開けて、前方を見つめている私の 顔に、雪は容赦なく降り注ぎ、アクセルを握る手が汗ばんできた。
息子が私の下手な運転に業を煮やし「運転を代わる。」と言い出したので、 走りながらインストラクターのお兄ちゃんに聞いてみた。が、15才以下は ダメ!とのこと・・・いったいどこまで行くのか?あと、どれだけ走ればスノ ーモービルから解放されるのか?何がvery easyだ!と思いながら、私は 途方に暮れてしまった。
それでも、川が凍ってできた雪原はまだよかった。しばらく行くと、今度は スノーモービル1台がやっと通れるくらいの川の土手に出た。右側の山の 斜面に乗り上げて動けなくなった人や左側の崖から滑り落ちそうになり、 木に突っ込んでかろうじて停止した人などがいて、インストラクターのお兄 ちゃんの忙しいこと、忙しいこと。
どれくらい走っただろうか?皆目見当が付かないまま、スノーランドに到着し、 ようやくスノーモービルからしばし解放された。家ほどもある大きなかまくら の中で温かいベリージュースを飲み、馬が引くそりに乗ったりしてしばらく 休憩した後、また恐怖のスノーモービルで帰路についた。
ところが、帰りはあっと言う間にスタート地点に着いた。運転に慣れた訳でも、 腕が上がった訳でもなく、おそらく行きはかなり遠回りの行程になっていたん だろうと思う。
今回の旅行は、このスノーモービルが最もおもしろい体験だと思っていたが、 翌日、それ以上のおもしろい出来事に遭遇してしまった。全くいろいろな事が あるものだ。
「サンタの国のクリスマス 1」
クリスマス前の2日間をフィンランドのヘルシンキで過ごした私たちは、 24日早朝、クリスマスをサンタクロース村のあるロバニエミで過ごす ため、ヘルシンキを後にした。子供も大きくなった今、サンタクロース でもあるまいが、昨年旅行したノルウェーで北欧の魅力に取り付かれ てしまい、サンタクロースにも会えるこの町でクリスマスを過ごすこと にした。
北極圏までわずか8キロという北欧の小さな町、ロバニエミのクリス マスイブは、派手な飾り付けや賑やかな人通りこそないものの、各 家々の窓にはキャンドルが灯され、雪がシンシンと降る中、町中に 賛美歌が流れ、最高の雰囲気だった。首都ヘルシンキとは、趣を異 にしたクリスマスイブの静けさがあり、あたかもじっと息を潜め、今か 今かとにクリスマスを待ちわびているように見えた。
サンタクロース村は、ホテルから車で10分。村の中には、サンタクロ ースの仕事場や郵便局、サンタグッズでいっぱいのギフトショップや レストランがあり、ちょうどこの村の上が北極圏との境界線になっている。
ギフトショップの建物を通り抜け、サンタの仕事場へ行こうと外へ出 た瞬間、聞き覚えのある言語がスピーカーから流れてきた。音のす る方へ目をやると、サンタの仕事場の2階のベランダから村中の人々 に、牧師さんが聖書の教えを説いていた。それがなんと、たどたどし い日本語。もちろん、フィンランド語、ロシア語、スウェーデン語、英語 でのお説教もあったが、その中に堂々と日本語が入っていたので、思 わず家族で顔を見合わせてしまった。
サンタの仕事場では、サンタクロースと一緒に写真撮影をする長蛇の 列ができていて、娘は撮りたがったが、息子は嫌がり、仕方なく娘と 私だけが列に並んだ。順番がきて、サンタさんと握手をして緊張して 椅子に座ると、英語で「日本から来たのですか?」と聞かれた。「YES!」 と答えると、「家族は二人だけですか?二人で来たのですか?」「あっ、 いえいえ、あそこに主人と息子が・・・」などと指さして説明していると、 「撮りますよ。パチりッ!」し、しまった!写真用の顔で出来てなかった・・・ と思ったが、後の祭り。この写真は、後日娘の学校でみんなの目に さらされ、えらく後悔してしまったのだが・・・1枚、1400円也。
それから、来年の12月に数人のお友達にサンタクロースからクリス マスカードが届く申し込みをして、サンタ村を後にした。
クリスマスイブのこの日、ロバニエミのほとんどホテルでは、「クリス マス特別企画」と称し、クリスマスディナーが宿泊料金に含まれてい る。初めて味わう北欧のクリスマスディナーに興味があった私は、ワ クワクしながらホテルのレストランへ行った。約100名ほどの宿泊客を ぐるっと見渡すと、東洋系の5家族以外はみなエりティン大統領に見 えたので、おそらくロシアから来ている人が多いに違いない、という 感触を持った。
暖炉の横には、3メートル近いクリスマスツリーが飾られ、キャンドルが 灯されたテーブルには、ターキーの丸焼き、スモークサーモン、ロースト ビーフ、チキン、鰯のマリネ、マスのグリル、ミートボール、グラタン、 ラザニア、数種類のサラダとケーキ、フルーツ等々、あっ、いくらもあった なぁ・・・と、たくさんのお料理が並べられ、お花やキャンデー、チョコレー トがテーブルクロスが見えないほどちりばめられていて、実に豪華だった。
お料理はどれも私の口に合い、ついつい食べ過ぎてしまった。
と、そこへ、大きな袋を背負ったサンタクロースが、トナカイと一緒に 現れた。子供も大人も一斉に駆け寄り、握手をしたり、写真を撮ったり ・・・その後、子供ひとりひとりにサンタさんからプレゼントが渡され、大 いに盛り上がった。プレゼントはホテルの名前が大きく入ったマフラー だったが。