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【11月24日号】【11月7日号】【11月1日号】【10月30日号】

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11月24日


「帰国後の進路について」

先日、日本語補習校で、中高生の親を対象に「帰国後の進路について」と題し た、校長先生の講演会があった。日本の情報や判断材料が得られればと 期待して出席したが、50分に渡って、教育課程審議会の答申だの、教育指導 要領だの、教育改革国民中間報告云々といった話をされただけで、演題とほど 遠い内容にがっかりしてしまった。
しかし、世の中には勇敢なお母さんがいるもんだ。校長先生の締めくくりの言葉 が終わると同時に手を上げて、「期待して出席したのに失望した。こんな話を聞 きに来たのではない。もっと役に立つ具体的な話が聞きたかった。」と、まぁ、な にも、あんた、そこまでハッキリと言わんでも・・・と思うくらい単刀直入に、ズバッ と抗議する場面があった。
校長先生は4月に赴任されたばかり。親の冷たい視線を感じながら、額に汗し て語られたのに・・・この仕打ち。少々お気の毒ではあったが、中高生の子供を 持つ赴任者にとって、帰国時期や学校選び等、一番頭の痛い問題であり、 誰もが情報を欲していることを痛感した。

英国の子供達は、義務教育を終える前(16才の5月)に実施される全国統一 試験、GCSE(General Certificate of Secondary Education)を受ける。その 結果、進路が3つに分けられる。1つ目は大学進学のための6th Formシック ス・フォームへの進学。2つ目は各種専門学校への進学。そして3つ目は就 職。16才にして、将来がほぼ決定されてしまう仕組みになっている。 GCSEの評価は、1回のペーパーテストだけでなく、過去2年間の平均点や ホームワークの評価、授業態度等、あらゆる角度から総合的に評価され合否 が決定する。要するに14才の9月から、2年間かけて受験するようなものだ。 日本ほどの学歴社会ではないにしても、GCSEの前になると、どの子も目の色 が変わるというから、子供達にとって最初の大きな難関であることに間違いは ない。

日本語補習校から配布された資料によると、現地校の授業の英語が完全に 理解できるようになるには、普通の子で6年かかるとある。息子は、今、GCSE がスタートしたばかりの14才。渡英して、わずか2年でGCSEに突入し、2年後 には、イギリスの子と肩を並べてペーパーテストに臨むことになる。とてもかな わないだろう。しかし、かと言って、日本の高校を受験、もしくは編入するには、 スッポリ抜けている日本の中学の勉強が必要で、現地校の膨大なホームワー クとの二足のわらじは無理に等しい。
息子にとって、いつ帰国するのがベストなのか?その答えは誰にもわからない。 これはもう、ギャンブルとしか言いようがないとさえ思えてくる。



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11月7日


「プラハにて 3」

中学の頃、ある朝目覚めてみると自分が巨大な虫になっていたという、カフカ の「変身」を読んで、「そんなバカなぁ、変な小説!」と思った。その後、時代の 波に奔走されていたユダヤ人のカフカ(プラハ出身)が、自分の身にいつ何が 起こってもおかしくない恐怖を小説にせざるを得なかったと知ったが、その頃 日本の片田舎でぬくぬくと過ごしていた私には、今ひとつピンとこなかった。し かし、今回のスリ騒動で、もちろんカフカのそれと比べるべくもないが、カフカが 感じていた不安の一端を共有したような気がして、私は一刻も早くこの国を出 たくなった。

3日目、もうメトロには乗れない。かと言って、ホテルに閉じこもっているのももっ たいない。とりあえず、貴重品をホテルのセーフティーボックスに預け、メトロと トラムでは、どっちが安全か?と尋ねてみると、フロントのお兄さんはちょっと考え てから、ひどいチェコ訛りの英語で「same」と答えた。
トラム(路面電車)の停留所でしばらく様子を伺っていると、大学生風の日本人 の青年の2人連れが現れ、トラムに乗り込んだ。と同時に、私たちのすぐ横でガー ドレールに腰掛けて携帯電話で話していた(ふりをしていた)黒い皮ジャンの男が、 ガードレールを飛び越えて、トラムに向かって一目散に走った。乗り場は道路 の真ん中なのに、スリたちは遠くから目を輝かせて見ているのだ。大丈夫だった だろうか?あの2人は・・・
結局トラムも諦めて、歩いて行ける展望台へ行ったが、ガイドブックにも載って いないこの展望台は、市民の散歩コース、憩いの場といったところで、程良い 運動とプラハの街が一望できる眺めは、プラハ城からの眺めよりもすばらしかっ た。途中のレストランで食べたチェコ料理もおいしくて、スリ騒動以来、初めて 家族に笑いが戻った。

4日目は、バスで30分のところにあるコノピシュチェ城へ行った。当初の予定で は、家族だけで列車で行くことにしていたが、鉄道の駅には、また毛色の違った スリがいるらしいので、急遽現地の英語のツアーに参加することにした。
この城の城主は狩猟が趣味で、狩った獲物のほとんどが何らかの形で残されて いて、壁一面に飾られた夥しい数の剥製や首じるしに驚いた、というか不気味だっ た。生涯で約30万頭(1日平均15頭)というから、相当な数だ。
城内で日本からの団体さんと出くわしたが、どの人も旅行をエンジョイされている ように見えた。団体ツアーだったら、スリに襲われることもないだろうし、美しいプ ラハの街を十分堪能できたことだろう。

そして次の日、ようやく私たちはプラハの街を後にした。
英国人お薦めナンバー1の街「プラハ」は、うっとりするほど美しかったが、初めて 体験した恐怖は、私をビビらせ、行きたい所、見たい物、食べたい物すべてを割愛さ せてしまい、決していい印象を残さなかった。しかし、安全に対する意識が高まった ことは確かだ。
実は、今年の年末には、プラハよりももっとスリの恐いイタリアに行くことにしている。 プラハへ立つ前、キャンセルの効かない激安チケットを手にしたばかりなのだ。あぁ ーどうなることやら・・・腹巻きでも買って万全に備えなければ。
               完





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11月1日


「プラハにて 2」

2日目は日曜日だった。前日中断した「王の道」の続き、カレル橋からプラハ城 まで、ゆっくり一日かけて辿ることにした。

前日と同じように、メトロの駅まで歩き、切符を買って電車を待った。ホームには、 各乗降口に2〜3人待っている程度で、ホームに入って来た電車も座席はほぼ 満席だったが、立っている人はなく、楽勝で乗車できると思った。
ドアが開き、私たちが乗り込んだ瞬間、夫が同じドアから乗り込んできた数人 の男たちに囲まれ、行く手を遮られ、後ろからはぎゅうぎゅう押され、片方の 肩にかけていたリュックも着ていたジャケットももみくちゃにされていた。あっ、 と思い、夫に歩み寄ろうとした瞬間、「離れろ!」と叫んだので、私と子供は 慌てて一歩退いた。ファースナー付きのショルダーバッグのひもを握りしめてい た私は、慌ててバッグに目をやり、ファースナーが手のところまで開いていること に気づき、急いで手探りで中身を確認したが、幸いなことに財布もパスポート も無事だった。
夫は186センチの長身で、どちらかというとがっしりした体格だが、それとほぼ 同格の男たち4〜5人が、その間もなお、寄って集って猛烈なアタックを繰り返し た。私は日本語で何やら叫び、夫は動き始めた電車のドアを背に、腰に付けた ポシェットを握りしめていた。
しばらくすると、男たちは攻撃をピタッとやめた。本当のターゲットの私が離れて しまったからか?夫のガードの堅さに何も盗れないと判断したからなのか?男 たちのひとりが、「もういい。家族の方へ行け。」というような仕草をしたが、夫は 「いや、ここでいい。」と、身振りで答え、次の停車駅までスリと被害者が無言 で隣り合わせて立つという異様な光景が繰り広げられた。男たちにとっては、 何ともバツの悪い時間だったに違いない。下車するまで一度も顔を上げなかった ので、睨み付けていた私と目を合わせることはなかった。
目的地で下車し、再度バッグの中を点検したが、二人とも何も盗られていなか った。夫は、「日本の通勤ラッシュを思い出したよ。」などと言っていたが、私は あまりの恐怖にしばらく足が震えた。

帰りのホームでは、電車待ちの一人一人を注意深く観察し、十分警戒していたが、 電車のドアが開いた途端、またしても夫が囲まれ、朝と同じ状況が再現された。 今度は朝よりも人数が多く、7〜8人はいただろうか?いったいどこから現れた のか?観光客とみるとハイエナのように湧いてくる男たちだ。ただ、幸いなことに、 夫はまだ電車に乗っていなかった。両隣のドアはがら空き状態なのに、私たちの 前のドアだけが黒っぽい服の集団で異常に混んでいて、娘が「パパ、(私たち) 乗れなぁーい。」と叫んだので、私も「次の電車にしよう。」と大声で言った。 夫はスーと身を翻し、奇跡的にその集団から抜け出た。とにかく、その場を離れ たくて、ホームをどんどん歩いていると、がら空き状態のドアがあり、家族4人、 ヒョイと乗り込んだと同時にドアが閉まり、電車が動き出した。

とんでもない国へ来てしまったようだ。1日に2度もスリに襲われるとは・・・それに しても、他の乗客は騒ぐでもなく、私たちを助けるでもなく、ただ黙って見ているだ けだった。どうやら、日常茶飯事的にこの種のスリ行為は繰り返されていて、慣れ っこになっているらしい。しかしスリというのは、被害者が気づかないうち に金品を抜き取る、まぁ言うならば、高度な技術を身につけたプロのことを言うの ではないのか!?あれでは到底スリとは言えない。力任せにむしり取る強盗以外の 何者でもないのだから。
ガイドブックや情報誌にもスリへの注意が、それからホテルのロビーや案内書にも Pickpocket(そのまんま)への注意書きが貼ってあるほど多発しているというのに、 いったい、この国の警察は何をしているんだ!と、自分たちの無防備さを棚に 上げて、だんだん怒りがこみ上げてきた。観光客が狙われるようでは、ボヘミアグラス も売れないぞ!





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10月30日


「プラハにて 1」

「ヨーロッパで一番美しい街は?」との問いに、複数の英国人から「プラハ」 との答えが返ってきた。中身よりも見てくれの良さにこだわる英国人が、絶 賛する街「プラハ」の美しさとは、いったいどんなものなのか?それに、ここ 最近、日本でもブダペスト・プラハ・ザルツブルクの3都市をまわるツアーが 人気を集めているという話を聞いたことがあり、今回のホリデーは、プラハを 訪ねることにした。そして、もうひとつ。指輪やネックレスといった宝石よりも 何よりも食器の好きな私には、ボヘミアグラスを買い求める楽しみもあった。

出発前、斜め読みしたガイドブックには、法外な金額を平気で請求してくる タクシードライバーへの注意や町中でのスリによる被害の実例がいくつか 載っていて、決して安全な国ではないという認識を持った。が、タクシーには 乗らなければいいし、スリも警戒していれば防げるものだし・・・と、さほど 深刻に考えもせず読み飛ばした。今にして思えば、もっと深刻に考えていた ら、プラハを訪れることもなかっただろう・・・。

ヒースローから2時間、チェコのルズィニェ国際空港到着後、ツーリスト・ シャトルでホテルへ。荷物を置くなり、プラハの街の中心地へ出かけてみる ことにした。
今回、私たちの滞在するホテルは、街の中心地から少し離れた小高い丘の 上にあり、紅葉の始まった美しいプラハの街が一望できたが、観光名所が密 集した街の中心地へ行くには、タクシーか公共の交通機関(メトロ(地下鉄)か トラム(路面電車)かバス)を利用するしかなく、メトロを乗り継いで行くことに した。自動販売機で家族4人分の切符を買い、自動改札を通ってホームへ続く 長いエスカレーターに乗ると、そのシチュエーションが以前訪れたロシアの 地下鉄にあまりに似ていることに驚かされ、長い間ソ連の共産政権下で喘い できたこの国の歴史を私に思い起こさせた。

プラハの街の見と゛ころは、歴代の王が戴冠パレードを行ってきた2500メー トルにおよぶ「王の道」に集約されている。出発点の火薬塔では石の階段を 上り、塔の上から360度プラハの街を眺めた。悠々と流れるヴルタヴァ川 の両岸には教会や宮殿、赤い屋根の街並み、そしてプラハ城が、赤や黄に 染まり始めた木々とみごとに調和し、それはそれはすばらしい眺めだった。 西洋の建築様式にあまり明るくない私は、どれがゴシック様式で、どれが ルネッサンス様式やアール・ヌーヴォー様式なのかよくわからないが、戦 争でほとんどダメージを受けていないこの街では、中世以前からの建築 様式が今なお健在で、ヨーロッパの古き良き時代を好む英国人にはたまら ない魅力なのだろうと納得した。

旧市街広場でからくりの天文時計を見て、ボヘミアグラスやマリオネットなどを 売る店を覗きながら、石畳の道をどんどん進んで行くと、プラハの象徴カレル橋 が見えてきた。長さ520メートル、幅10メートルの橋の欄干には、30体の聖人像 が並び、橋の両側には、ストリートパフォーマーや音楽隊、似顔絵描きやみや げ物屋が並んでいて、観光客で賑わっていた。橋からの眺めもまたすばらしく、 もう少し、ゆっくりしたかったが、夕暮れも近づいてきたので、続きは明日という ことにして、メトロでホテルへ帰った。

プラハでの初日は、何事もなく過ぎていった。






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