【バックナンバー目次へ】
【最新号へ戻る】

目  次
【3月31日号】【3月22日号】
【3月15日号】【3月5日号】【3月1日号】


バックナンバー目次
最新号へ

3月31日


「ジェニファーに誘われて」

日本から最後の船便が届いた数日後、娘を迎えに行った学校で 「あなたの家の斜め向かいに住む、ジェニファーと言います。
よかったら、うちでお茶でもいかがですか?」と声をかけられた。
見ると、彼女の横にはベビーカーに乗った1才前後の双子の赤ちゃん。

ガードの堅い英国ではじっと観察して1年、ハローと挨拶を交わして1年、 お茶に招待されるのは3年目に入ってからだと何かの本で読んだ記憶が あったので、突然のしかも初対面の彼女からのお誘いに驚いた。
年齢も違う私といったい何の話があるんだろう?それよりも何よりも 双子の赤ちゃんの世話だけでも大変な毎日だろうに・・・
ちょっと不可解ではあったが、断る理由も見つからず、訪問する約束を してしまった。

当日、辞書を片手に緊張してドアをノックした。にこやかに出迎えてくれた ジェニファーは「私の話すスピードが早ければ遠慮なく言ってください。」
と言いながらキッチンに案内してくれた。
「赤ちゃんは?」と尋ねると「お昼寝中よ。」という。
「えっ?いつもこの時間(10時)にお昼寝をするの?」と思わず聞いてしまった。
すると「今日は特別。2時間は大丈夫よ。」とウインクをしながら答えてくれた。

お茶の用意が整うと「リビングへどうぞ」と案内された。
リビングに一歩足を踏み入れて、私は「うわぁ・・・」と叫んでしまった。 壁には日本の掛け軸や水墨画が掛けられ、扇子やお雛様、紫地に花模様の 付下げ、有田焼のお皿や壺などが所狭しと飾られていた。テレビの時代劇でしか 見たことがない煙草盆や火鉢もあった。
驚いている私に、10年前ご主人の転勤で1年半だけ東京の四谷に住んでいた ことを話してくれた。日本語のプライベートレッスンを受けたが、今でも覚えている のは「こんにちは」と「ダメ!」くらいであること、日光や信州に旅行したこと、 付下げは伊勢丹で買ったことなど、日本での思い出をたくさん披露してくれた。 それから庭に出た彼女が「見て、見て!」と言って持ち上げたものは、花の絵が ペイントしてある陶器でできた和式の便器だった。壁にくっつけて 「フラワースタンドよ」と言うので、ギョッとして「ほんとの使い方を知ってるの?」 と聞いてみた。彼女は事も無げに「べ・ん・じょ」と言って大笑いをしてみせた。 そして最後に「数日前、家の前に止まっていた「OO運輸」と書かれた 引っ越しトラックを見て、日本人だとわかったので、どうしてもあなたを招待した かったの。」と言ってくれた。

娘と同じ学校に通う4年生の男の子と1年生の女の子、それに一寸も目が離せない 歩き始めたばかりの1才半の男の子と女の子の双子、計4人もの子供がいて、 ただでさえ大変であろうに、私のためにあれだけの思い出の品々を飾ってくれて、 頭の下がる思いがした。会話の端々に感じられた温かくて細やかな心遣いは、 お父さんがアーミーだったため、10才からボーディングスクール(寄宿舎)で 生活したことや日本での経験によって培われたものに違いない。
異国の地で受けた思いがけない親切が一際身に浸み、 しあわせな気持ちになった一日だった。

それから数日後の夕方、玄関から出た私は度肝を抜かれた。
家の前を通ったヘルメット姿のバイクのおにいちゃんが、大きな声ではっきりと 「こんばんは」と叫んだのだ。そして、彼女の家の前でバイクから降りると、 ヘルメットをとって、腰を90度に曲げて一礼してくれた。
紛れもなくジェニファーのご主人だった。






TOPに戻る


3月22日


「息子の学校生活 2」

しかし、もがいていたのは私たちだけではなかった。

12月に入ると、各教科の先生との面談があり、「何を言われるか?」と 重い足取りで学校へ向かった。ドラマスタジオという広い会場には、先生が 1メートル間隔で座っていてたくさんの親でごった返していた。
前もって、面談したい先生と時間を予約しておき、制限時間5分の中で次から 次へと面談するシステムになっている。

まず最初は、英語の先生との面談だった。ぎこちない挨拶を交わし、身構えて 座った私たちに、先生の第一声は
「Keisuke is funnyboy!」
私は一瞬、自分の耳を疑い、夫と顔を見合わせた。funny・・・おもしろい??? 夫がすかさず、「何がおもしろいのか?」と質問すると、「先生の物まねをして、 それがウケるらしく、クラスの人気者だ。」と説明された。日本でこんな評価を 受けたことがなかったので、とても驚いた。これが、言葉が通じない息子が 身につけた処世術なのか?

その後、主要教科の先生8人と次々面談し、それまで知らなかったことを たくさん聞くことができた。息子のプライベートレッスンの時間を増やすために 州と交渉したり、あれこれ手を尽くしてくれていること。それから9月の始め、 担任のミスター フォードから「みんなでKeisukeを助けてやってほしい。」 という話がクラスであったこと。
・・・そう言えば、友達がホームワークを書き写してくれた日があったり、 「ランチいっしょに食べよって女に誘われちまったぜっ」
なんて言っていた日もあったなぁ・・・と思った。
車で迎えに行くと、いつも友達に囲まれて待っていたし・・・
思い当たることがたくさんあった。
クラスで変な日本語を流行らせていることもわかった。
職員室では「Keisukeは今何してる?」「グランドで友達とフットボールをしてたわよ」と 絶えずたくさんの先生に見守られていることを知った。

東の国から来た言葉の通じない子に先生やクラスメイトが心を砕き、 手を差しのべてくれていることを知り、感謝の気持ちでいっぱいになった。
そして、ひとりひとりの子供を大切に思い、考えてくれる英国の教育の懐の深さに 感心させられた。
どの先生とも制限時間をオーバーしてしまったが、それまで広くて、遠い存在だった 息子の学校がグンと身近に感じられるようになった。

息子は今日も悪戦苦闘しながらホームワークに取り組んでいる。
これから先もその苦労は続くことだろう。しかし、勉強以外では、 先生やクラスメイトに助けられて、楽しい学校生活を送っている。
つい先日も友達に誘われて、コンサートに行ったり、ゴルフの打ちっ放しに行ったり・・・ 少しずつ生活をエンジョイし始めたところだ。ゆっくりではあるが、確実に 前に向かっているという感触を得ている。

先日、日本の友達との電話で「英語が自然に話せるようになり、帰国すれば 帰国子女枠で有名私立校に楽に入れていいわね。」と言われ、腹が立った。
そんな生易しいものではない。海外に暮らす子供たちが背負っている多くの課題は、 安易な想像を遙かに越えている。実際に、子供が現地校に馴染めないため、 高速道路を3つ乗り継ぎ、片道小1時間かけてロンドンの日本人学校まで、 毎日送り迎えをしている知人もいる。
雑誌などでよく見かける、バイリンガルに成功した子供たちは、ほんの限られた ひとにぎりの子供達であって、その裏には挫折し傷つき、中には心の病気にかかって しまう子供達がたくさんいることを知ってほしいと思った。そしてそれは、 子供の能力や努力というよりも、年齢や性格、まわりの環境が大きく影響していることを 理解してほしいと思った。

遙かなり、バイリンガルへの道






TOPに戻る


3月15日


「息子の学校生活 1」

息子の学校は、車で5分。広大な土地に12才から18才までの子が通う 公立の中学校(+高校)だ。1学年6クラスあり、息子は8年生になる。

息子が初めてひとりで学校へ行った日は、前の晩からひどい下痢を していて、朝もなかなか支度ができなかった。白いワイシャツに紺の ネクタイとブレザー、グレーのズボンに底の厚い黒のひも靴という いかにも英国的な制服で、初日は夫がネクタイを結んでやり、 二日目は私が結び方を教えてやった。

車で送って行き、広い校庭の片隅で息子を降ろすと、初めて 幼稚園にやった日のことを思い出してしまった。不思議なことに 娘の方はあまり気にならないのだが、昔から何をしても要領の悪い 息子はいつまでたっても心配で仕方がない。
うつむき加減に歩いて行く後ろ姿をいつまでも見送っている私に、 「大丈夫だから・・・」と叫んで、笑って手を振った息子の顔が、 歪んで見えた。

そして案の定、全然大丈夫じゃなかった。
「授業がどこの教室で行われているのかわからなくて、30分も 遅刻した。」と言って帰ってきた。一応、クラスは決まっているが、 授業は各自の選択や能力別クラスに分けられているので、 ひとりで行動しなければならない。目星をつけていた子に ついて移動したら、違う授業が始まったので慌てて学校中を 捜し回ったというのだ。無理もない。前日の面接の時に、 大急ぎで広い学校の中をグルッと案内されただけなのだから・・・
(私など未だによくわからない。)

息子は、授業や朝礼などの席や並ぶ順番が決まっていないこと、それから イヤリングやピアスをしている子が決して珍しくないこと、2時間目と3時間目の 間にあるブレイクという休憩時間にチィップスを食べている子がいることなど、 各自が自由に行動していることにとても驚いたようだった。

私は毎日持ち帰る宿題の多さに驚いた。ホームワークのノートには、 連日2,3教科の宿題の内容と提出日が書かれていて、 夕飯の片づけもそこそこに親子で夜遅くまで取り組んだ。
夫もどんなに疲れて帰って来ても、まず息子の宿題に目を通した。
来る日も来る日も宿題に頭をかかえる日々が続いた。

中でもフランス語と宗教と歴史(ヨーロッパの)はお手上げだった。
義父に頼んで日本語で書かれている「ヨーロッパの歴史」という 分厚い本を送ってもらったり、出張中の夫にEメールで相談したこともあった。
また、ある時は「何をすればいいのか?」宿題の内容すらわからない日もあった。
「わからなければ、先生か友達に聞けばいいじゃない。」と言う私に、 「何て言って聞いたらいいかわからないし、教えてもらったところで 何を言っているのかわからない。」と言う。なおも文句を言う私に 「じゃ、母さんやってみろよ!」と、バタンと部屋のドアを閉めた。

赴任が決まった時、私が最初に考えたことは、「子供達は日本の受験教育から 解放されて、英国でゆとりのある教育をのびのびと受けることができる。」 ということだった。しかし、現実は日本よりも過酷な条件下での勉強を 強いられていた。
キリストの誕生を絵に描くことが、この子にとって将来何の役に立つのか?
ヘンリー8世の結婚歴を調べることが、どんなプラスになるのか?
貴重な時間をこんなことに使っていていいのか?
私は焦りと疑問でいっぱいだった。

息子の元には、時々日本の友達から、野球部の練習で5キロのランニングを していることや友達の活躍を知らせる手紙が届いた。
息子は時々思い出したように、野球道具を庭に持ち出し、素振りをしたり 走り込みをしたりしていたが、空とのキャッチボールは長くは続かなかった。
「ほしいものがあったら送るから何でも言って!」という義母からの電話に 「日本に帰る航空券がほしい。」と答えたのもこのころだった。

今考えると、先の見えない迷路の中で息子も夫も私も必死で もがいていた時期だったように思う。






TOPに戻る


3月5日


「忘れていたスーツケース」

いやー行方不明になったスーツケースというのは 出てくるものなんですねぇ。

たまたま夫がイタリアへ出張中だった深夜0時、突然電話が鳴ったので、 いつもは巻き舌のすんばらしいハッチョンで「ハロー」と出るのですが、 てっきり夫だと思った私は「もしもし・・・」と日本語で出てしまったのです。
すると相手は英語で「ペラペラペラ・・・」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれい。マイ ハズバンドは、いっ、今いてませんねん。」
と言うと、また「ペラペラペラ・・・」
「わからん人やねぇ。だからぁーいてないってゆうたでしょうが・・・ところであんた誰?」
と聞いてみたら、「ペラペラ ラガーディア ペラペラ エアポート ペラペラペラ・・・」

ひえーひょっとしてスーツケースのことかいな?と思い、めちゃめちゃ丁寧に 「ただいま主人は留守にしておりますです。明日には帰って参りますので、 恐れ入りますが、明日もう一度同じ時間にお電話いただけないでしょうか」
と言った(つもり)ら、「OK ペラペラペラ ペラペラ・・・」
ぜぇーんぜんOKじゃないじゃないか!と思いながら聞いていると、 「明日の午後の便にスーツケースを乗せるけどOKか?」と聞いていて、 慌ててOKを連発したという訳なのです。

翌日帰宅した夫に、「私の聞き取りが正しければ明日スーツケースが 届くはずだ。」と言うと、半信半疑のようでしたが、これがなんと届いちゃったん ですよっ、次の日にちゃーんと。
いやー参った参った・・・私の英語力も大したもんだ!
自分で自分を誉めてやりたくなりましたよ。(あれれ?どこかで聞いた ようなセリフ・・・)

さてさて久しぶりに対面したスーツケースは、多少薄汚れていましたが、 けがもなく元気そうにしておりました。恐る恐る開けてみると、汚れた衣類の 中からまあ・・なんと出てくる出てくるメープルシロップが。
メープルシロップ入りチョコレート、メープルシロップ入りクッキー、 メープルシロップ入り角砂糖・・・誰がこんなアホほどこうたん?

と言うわけで、お騒がせしましたが、無事スーツケースが出てきましたので この場を借りてご報告させていただきました。すんつれいしました。






TOPに戻る


3月1日


「娘の学校生活 1」

娘の学校は、歩いて5分。5才から11才までの子が通う小規模な 公立の小学校だ。
小3で渡英した娘は、4年生になるのだが、2学年混合クラスなので 「3M4」というクラスに入っている。
担任のミス モーリスは、若くてきれいな音楽の先生。
毎朝出席をとる時、「イエス ミス モーリス」と答えるそうで、 最初のころは家でよく練習をしていた。

驚いたことに、英国の学校には教科書がない(配られる 教科もあるらしいが、授業が終わるとまた返却する)ので、 どんなことを習っているのか、親が把握できない。
ただ、英語だけは、先生と1対1でABCから授業をしてもらっている。
娘が最初に言った学校の感想は「算数が簡単だ」と いうことだった。日本では考えられないことだが、 20を足す計算だったり、2倍して10を足す計算だったりで、 日本の算数教育がグーンと進んでいることを 実感させられた。

渡英してすぐの頃、日本風に近所に引っ越しの挨拶に 行ったところ、その中の1軒が、学校は違うが息子と同い年の 男の子と娘と同じ学校に通う一つ年下の女の子 (ジェニー)とその妹(ルース)の家だった。
ジェニーは、お母さんのジャンに言われているのか、休み時間になると 必ず娘のクラスに来て、4,5人の子と大縄やドクタードクター (みんなで手をつないでからまったところを「ドクタードクター」 といってほどいてもらう遊び)などで娘と遊んでくれた。
そしてそれは、娘が学校に慣れるまでの約3ヶ月間毎日続いた。 ジャンは、送り迎えの時私を見つけると、必ず声をかけてくれたり、 学校からの手紙で意味不明なところを教えてくれたり、 時々お茶に誘ってくれたり、と以来ずーと私たち家族のことを 気にかけてくれて、いろいろお世話になっている。
ジェニーのバースデーパーティーに娘を招待してくれて、 サーカスに連れて行ってくれたこともあった。そしてその夜は、 ジェニーの家にお泊まりした。娘にとってはサーカスも外泊も 初めての経験だった。

娘は学校へ行くことを嫌がって私を困らせるようなことは一度も なかったが、算数と体育以外は、ちんぷんかんぷんの授業を ただじっと座って聞いているという毎日を送っていた。ちょうど その頃、10月15日の娘の誕生日がきた。
昼休みが終わり、娘が教室に戻ると、黒板いっぱいに
「Happy Birthday Sachi」
と書いてあり、その下になんと日本語で 「お誕生日 おめでとう さち」 と書いてあったそうだ。担任のミス モーリスが、秘かに日本語を 勉強して、何度も何度も練習して書いてくれたらしい。
娘が驚いて立ち尽くしていると、ミス モーリスの合図で 「ハッピーバースデー」の歌をみんなで歌ってくれたそうだ。
娘はその日感激して帰って来た。
娘にとっては忘れられない9才の誕生日になった。
私は心配性の母を少しでも安心させようと、実家に電話した。
電話のむこうで母が泣いていた。






TOPに戻る


極楽とんぼへ