目 次
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9月16日
「乳豚」
先日ある住宅ビルの改修工事起工式に立ち会った。 風水による縁起の良い日時を選んで工事の安全を祈り関係
者立ち会いの元、儀式が始まる。 日本でもお払いの儀式があるように香港ではいかに近代的な建物でも施工式
や引越し等の時は必ず儀式があり、欠かせないのが乳豚の姿煮ならぬカリカリに焼いた子豚のロースト。 お目
出度い席にはよく登場するこの乳豚、最初見た時はギョとした。 乳豚だから当然赤ちゃんの豚なのだがこんが
り焼いて耳や足までそっくりそのままの姿でやってくるのだ。 日本ならさしずめ鯛の姿焼きといったところだ
ろうが、こちらの儀式カラフルだ。 結婚式など料理屋で出される場合は乳豚の目のところにピカピカ光った電
球が埋められていたり、そうでない時でも赤いチェリーが埋められていて今日は周りを赤いりんご、黄色のオレ
ンジで飾っている。 中国人はこの赤と黄色の取り合わせが大好きだ。 赤はお目出度い色で婚礼衣装やお年玉の
ようなお祝い袋は必ず赤。 黄色は昔、皇帝しか使えなかったありがたい色。 そういう訳かどうか国旗もこの色
合わせなものだから黄色と赤が氾濫する。 スーパー・マーケットの袋ぐらいはいいとしても街の看板、幼稚園
の制服、スポーツ選手のユニフォームにまでモロこの二色のみ使うのは勘弁してもらいたい気がする。
今回の乳豚は野外で行われるためかちょっと大きめで間近で見ると生々しく閉じた瞼には半分まつげまで残って
いて少々ショッキングであったが頭につけたピンクの紙の造花がユーモラスでもある。 豚の両横には蒸した
鶏、先ほどのりんごとオレンジ、そして中指ほどの太さもある大きなお線香を何本も灯し、関係者各代表がナタ
のように大きい包丁でケーキカットならぬ乳豚の背中に包丁を入れる。 あらかじめ背骨や内臓は取り除いてあ
りそのあとは料理屋から配達してきたおにいちゃんがこれまた真っ赤なお盆に載せた乳豚を地面に置いて例のナ
タを振り下ろしバンバンと手早く切り裁き蒸した鶏とともにテーブルに並べて出来上がり。 何時の間にやらポ
リバケツには氷と一緒に飲み物も用意されている。 午前中にもかかわらず暑くて死にそうだったので早速パッ
ク入の菊のお茶を頂いて一息いれる。 私はとっくに上着を脱いでいたが男性たちはネクタイにスーツ姿をくず
していない。 よくぞ女に生まれけり、だ。
しかしこの乳豚といい北京ダックといい皆ありがたがるが正直言って私はあまり得意ではない。 中国料理は奥
が深く凝ったものが多いが私は今だに初心者コースや素朴な家庭料理で満足している。 宴会などに行くと珍し
い料理は必ず聞くようにしているが結局半分かた遠慮してしまうので、ありがたみの分からない情けない日本人
と思われているんだろうな。 豚に真珠?
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8月23日
「プーケットの夏休み ー 2」
今回のホテルは客室も100ぐらいでこじんまりしており周りに何もないので外からのゲストもなく泊まり客と
もすぐ顔なじみになりとても家族的な雰囲気。ホテルの従業員達も私たちのことをすぐ覚えてくれて美味しいも
のを薦めてくれたり子供と遊んでくれたり、騒がしい宿泊客もいなくて静かで快適な滞在になった。
ところが子供たちは昨年泊ったラグナ・ビーチのように大型ホテルが5つも繋がってあちこちの嗜好を凝らした
プール巡りやら、いろいろな施設、毎日種々催されるゲーム、夕陽の砂浜で乗馬、とりわけ入り江を塞き止めて
作ったラグーンでジェット・スキー三昧をしたかったようだ。確かに施設内には周り切れないほど色んなレスト
ランがあったし毎日エアロビックス、水中ポロ大会、バレーボール大会等と盛り沢山で楽しかったが夏休みの一
番込む時期だったせいもあり朝食に行っても運が悪ければ大きなテーブルで他の家族と相席させられたりという
こともあった。 ホテルのプールサイドで波の音と風にそよぐ椰子の葉の音だけを聞きながら静かに読書を楽し
みにしていたのにそこへ飲茶レストランの喧騒が襲ってくるのには閉口した。 しかし普段のどかなニュージー
ランドで暮らしている長男はその人込みと喧騒に浸りたかったと言うではないか。 お互い無い物ねだり。
2日目はとりあえず泊まり客の姿もまばらなプールやビーチでゆっくりしたが、午後からは息子達の要望で夕食
も兼ねて昨年泊ったラグナ・ビーチに出かけた。昨年仲良くなった貸しジェット・スキー屋のアキラにも再会し
たかったが行った時間が悪かったのか会えなかった。アキラは真っ黒の肌にきれいに並んだ真っ白の歯と黒目の
周りの白い眼が真っ白な19歳の若者だ。タイ人にもいろいろな種族があるらしいが本人は100%プーケット
のタイ人だと言っていた。しかし並みじゃない肌の黒さと彫りの深い顔立ちはどこから来たのだろう。彼はジェ
ット・スキーに日参していた次男の面倒をよくみてくれて、どこで習ったのか英語も日本語もなかなかうまいし
勉強熱心だ。彼に案内してもらって珊瑚島へ行った折り、島の食堂でを色々注文してくれたその中にタイ名物の
スープ、トンヤムクンがあった。彼は美味しそうに食べていたが余りの辛さに辛いもの好きの夫まで一口で降参
してしまった。因みにどれだけ辛いかと言うと、用心して爪楊枝の先をスープにちょっと浸したのを舐めただけ
で私などは死にそうになってしまったのだ。
ラグナ・ビーチではお目当てのアキラには会えなかったがホテルのロビーに入ると懐かしの香港チャイニーズご
一同様がこれから夕食にでも出かけるのかお賑やかなこと。リゾート地のない香港ではホリデーというとどうし
ても飛行機に乗って外国に出かけざるを得ない。(近場の中国国内旅行の方がずっと高くつくのだ。) タイは
短時間で行けるしバーツの下落のため高級ホテルに泊っても値ごろ感があり、この不況にもかかわらず今や経済
力をがっちりつけた香港チャイニーズで大賑わいなのだ。彼らの多くは親戚や友達などと大人数でやってきて老
若男女毎晩遅くまで大エキサイティング・ホリデーを繰り広げる訳だ。 一方、通貨危機、経済危機を迎えたタ
イでもこれを逆利用した観光が外貨獲得の最大の産業になったようだ。
子供達はともかく夫も私も年を取ったせいだろうか、究極の喧騒の世界、香港での生活が長くなったこの頃ホリ
デーは静かに気の向いた時に気の向いたことをして過ごしたいと思うようになってきた。 椰子の木陰、青い海
を臨むテラスで丁度持参した「月と6ペンス」を読んでいてロンドンでもパリでも自分の居場所を見つけられな
かったストックブローカーの主人公がタヒチの柔軟な懐に取り込まれ1枚の絵も売れないまま、そして売らない
まま悲壮な天才画家として成就していく様がやけに感動的であった。
「プーケットの夏休み ー 3」
ひたすらのんびりする休みとは言えやはり子供たちとも遊びたい。泳いだり走ったりする遊びはとっくに二人の
息子達に越されてしまったが、それでもよその子供も巻き込んでプールでゲームをしたり、夕陽の浜辺でバレー
ボール、お調子に乗ってタッチ・ラグビーまでやってしまった。砂に足を取られながらあんなに思い切り走った
のは何十年ぶりだろう。しかし私の場合この年になるとやはりスポーツは室内に限っておいた方がよさそうだ。
いや、むしろレモン・グラスのオイルでスエーデン・マッサージが最高だった。
夫と息子達はゴルフ、そして初体験のダイビングが収穫だったようだ。 午前中ホテルのプールまで(何故かド
イツ人の)インストラクターがやってきて講義と実地演習をし、午後から近くのホテルからも参加者を6名拾い
スピード・ボートで1時間ほどの沖合いの無人島に向かう。島といってもエメラルドグリーンの海に突き刺さっ
ている切り立っている岩山だ。 ボートを適当な所に泊めて夫と息子達はインストラクターに連れられて早速潜
って行ってしまった。 他の人たちは全て経験者で思い思いの所に潜って行った。次男は年齢制限で本当は海に
潜らせてもらえないのだがどうもうまく行ったようだ。後で夫に聞いた話によると彼はお調子に乗ってインスト
ラクターの言う事を無視してどんどん勝手に沈んで行ったので酸素の減り方が異常に速かったのだそうだ。身体
は大人の半分ほどしかないのに。 夫は50歳を過ぎてこんなに簡単にダイビングが出来たことに興奮気味であ
った。
ダイビングにはちょっと難ありの私はその間シュノーケルで珊瑚の海を散歩することにした。ところが情けない
ことに久しぶりの海(当然塩水で波もある)でシュノーケルを忘れてしまって苦戦していると気のいいタイ人の
ボートボーイが助け船を出してくれて、おまけにあちこち案内してくれるのだ。目の前を泳ぐ色鮮やかな熱帯魚
にこんにちは、小魚の群れに出会うと左右にサーと道を開けてくれる。色とりどりのおびただしい数の珊瑚のお
花畑。水面を見とさっきすれ違った子魚の群れが弧を描いて水上に橋をつくっている。 でもお天気もいいのに
水が思ったほど透明でない。
息子達が後日カタ・ビーチに波乗りに行った時半日雇ったタクシーの運転手によるとプーケットの海もこの数年
で随分汚れたそうだ。観光客をどっさり送り出している側の香港の新聞でもここ数年プーケットの観光開発がも
たらした環境破壊と汚染についてと取り上げてきた。 翌日ホテルで読んだタイの地元紙にもオーストラリアの
グレート・バリア・リーフ、インド洋、タイなどの珊瑚が2100までに死滅する可能性があるという記事があ
った。地球の温暖化による海水温度の上昇と環境汚染が原因とある。 また帰りの飛行機の中でもらったタイの
新聞によるとプーケットの海は乱開発されたホテルにより汚染が進み、島の周りの珊瑚はダイバー達に荒らされ
てしまったとある。 海水による石灰岩の侵食でできた洞窟で知られるパン・ガー・ベイはではエコ・ツアーと
して紹介されたカヤックーのツアーが瞬く間になりふりかまわぬ貪欲な商業ベースの業者達によって今や一日千
人もの観光客を送り込み、中国料理で珍重されるつばめの巣なども採取できるとあって心無い人たちに荒らされ
ているそうだ。 このエコ・ツアーを始めたアメリカ人の環境活動家は地元の漁師や農家の若者を優秀なガイド
に養成し、一日のツアーも50名に押え、洞窟内に生息する野生動物を脅かさないように話はひそひそ声で、も
ちろん禁酒、禁煙、落ちている小石でさえも持ち帰ってはならないなどと出発前には環境保全の重要さを説明し
ているのだそうだ。しかしこういう努力はお金がかかるしそんな努力に無頓着な競合者が出てきたら商業的には
難しい。2―3年前に行ったオーストラリアの熱帯雨林やグレート・バリア・リーフのツアーではガイドがこう
いう知識をよく把握していて観光客もそれなりに心構えが出来た。しかし今回私たちが行ったプーケットのダイ
ビング・ツアーでは残念ながらそういう姿勢はみられなかった。
自分たちの環境を荒らした後、青い海、青い空、椰子の葉陰、白い砂浜、満天の星などを求めて先進工業国から
やって来る観光客の我々がこうしてかろうじて残っている環境を破壊している矛盾。 観光と環境の共存の難し
さ、地球に増え過ぎた人間の罪深さを考えさせられる。
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8月12日
「プーケットの夏休み ー 1」
昨年のお盆休み(当地にそんなものがある訳ないが日本企業に勤める夫が休みを取りやすい時期という意味でこういう言い方が存在するのである)にプーケットに行きそこなった長男はその後ずっとブツブツ言い続けていた。 連れていった次男も前回同じホテルに泊っていたクラスメートが1ヶ月滞在と聞いて「4泊なんて行った内に入らない!」といいおる。じゃ、やってやろうじゃないの、思い切って(1ヶ月は無理としても)8泊。そして混雑する時期を避けて夏休みが始まってすぐの7月の1週目にした。 今回は今まで行っていないタイの反対側の海に面したコ・サムイやマレーシアのランカウイを考えていたのだが結局は値段で釣られてしまった。4泊分の料金でプーケット8泊のパッケージというのがあった。それに昨年泊ったような大型ホテルが連結したものではなく藁葺きのコテジというのもあったのでものは試し、子供たちが住んだことのない「木造一戸建て」にした。
パッケージ旅行とはいえプーケットの空港から目的のホテルに向かう家族は我が家だけだった。(いいぞ!)ホテルは予想したとおりこじんまりしたモダンなタイ建築。海に面した斜面に建っているので吹き抜けのチェックインロビーは南国の暑さを感じさせるが真っ青な海からの風が爽やかに感じられる。 トロピカルドリンクを飲みながらチェックインの手続きをするが一人しかいない受け付けの人はかかってくる電話の応対等でなかなか進まない。いや、タイに来たら万事ゆっくりと、そう、ゆっくりしに来たんだから、ゆっくり待とうと自分に言い聞かせる。
案内された私たちの部屋はデッキチェアが4台並ぶテラスを隔てたコテジ2棟。どのコテジからも白い砂浜と青い海が見渡せこれだけでも来た甲斐があったというものだ。藁葺き屋根といい窓もガラス戸も今時見られなくなった木枠で懐かしい造りだ。 息子達は早速自分たちのコテジでテレビのチャンネルとホテルの施設を調べ散髪にと3件ほど先のサロンに出かけていった。しばらくして様子を見に行ってみると長男は若いタイ美人にあれこれ注文をつけながら髪を刈ってもらっており、その隣で次男がなんとマッサージをしてもらっているではないか!「ママ、すっごく気持ちいいよ。」と、こちらを向いた彼の短い前髪は三つ編みしてビーズまで編み込んであるのだ。次男の髪は散髪するには短すぎるので他にお客さんが居ないのをいいことサロンのお姉さん達に遊んでもらっていたようだ。
タイはこの時期雨季で空は毎日カラッと真っ青とはいかないが散歩に下りた美しいプライベート・ビーチと青い海が贅沢だ。ホテルで働いている人たちは英語もうまいし、私はタイ人の柔らかい物腰とすれていない人なつこい笑顔そして極め付きの合掌スタイルの挨拶が好きだ。ホスピタリティー産業にはもってこいの人たちでリラックスさせてくれる。 夕方のスコールが終わった後ホテルのレストランに行くと白いカチッとしたチャイナカラーの長袖ジャケットにタイ風の細身の巻きスカートの制服のウェイトレスのお姉さんたちがにこやかに合掌で迎えてくれる。うれしいなあ。今回は珍しく夫もまとまった休みを取ってくれたが家族でこうしたホリデーを後何回ぐらい出来るかなあ、思い切り楽しむことにしよう。アンダマン海に沈む夕陽を眺めながらタイ料理を楽しみ、幸せに浸っていると次男はいつのまにやらレストランから海に張り出したテラスでそこら辺から集まってきた子供たちを相手にジム・キャリーよろしくお笑い独演会で汗びっしょりになっていた。
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6月30日
「蛇 頭」
東京の歌舞伎町が日本のやくざに替わり蛇頭にのっとられたという記事が最近の新聞に出ていた。 ここ数年中国のマフィア、蛇頭(黒社会とも言う)により不法移民が大量に日本に送りこまれいろいろな事件が起こっているようだがどうも不況の日本でうまくビジネス・チャンスを掴んだようだ。 不況で風俗産業が一挙に落ち込みそこを不法滞在者の弱みを利用したうんと安い労働力でさらい、持ち前の緻密な分析力、組織力、柔軟さ、それにハイテクを駆使しての精巧な偽造パスポート等を活用しマーケットに食い込んだものだから日本のやくざが干上がってしまったとある。 しかも彼らの賢い所は日本人はお客様、つまり徹底して安価で満足行くサービスを提供する対象として問題を表に出さない。 問題を起こすのは蛇頭の言う「いう事を聞かないばかなやつ」で殺傷事件は使う方と使われる側の中国人同士なので被害を受けても不法滞在者ゆえ警察に届けられることがないところがまた厄介なようだ。 先ごろ歌舞伎町で手入れがあり100人以上の不法滞在者が捕まったらしいがこんなもんじゃどうにもならないのだそうだ。 九州にこっそり上陸したり、コンテナで蒸し焼きになった不法移民が港で見つかったりと、東京のみならず今では日本のあちこちに根を張っているようだがどうして日本のような国で取り締まれないんだろう?
蛇頭が組織した超おんぼろ船がニューヨーク近くの海岸に接近したところ当局に包囲され、凍てつく海に飛び込んで泳ぎ着いた海岸でご用となった不法移民のニュースが数年前にあった。 しかし首尾よく米国にもぐりこんでも彼らを待っているのは奴隷そのもののひどい環境で逃げるに逃げられない悲惨な生活だ。 米国での彼らの組織の大きさを感じさせる。
蛇頭によるこの不法移民輸送業、今度は福建省の中国人がおんぼろ船ではなくハイテクのちゃんとした大型船で南太平洋のソロモン島からニュージーランドに向かっているのが見つかった。 ニュージーランドはもともと多くの中国人移民を受け入れてきし、いろいろな国から人道上の移民も受け入れているが、こんなに大胆な不法移民団の押しかけにあったのは恐らく初めてであろう。 オーストラリアと南の楽園の島々の間、南太平洋におっとりと浮かんでいる(に見える)ニュージーランドもさすがに大慌てしたようだ。 この背景にはニュージーランドの移民法で不法移民を拘留できるのが最長で28日間(?だったと思う)で、その後は決着がつくまで社会保障を付けて自由に生活させなければならないということがあるのだそうだ。 正式に決着が付くまでには何年もかかる可能性があるし、その間に地下に潜ってしまった不法移民を捕まえるのも大変なことだ。 ニュージーランド政府はこの大量不法移民船が到着するまでに大急ぎで拘置期間の制限を除く法の改正をし毅然と臨むと言っていたがその後どうなったか。
香港のやくざは元来直接蛇頭とは関係ないが Triad または「黒社会」とよばれていて、これもまた非常に良く組織されたやり手の企業だ。 しかし蛇頭がこれほどまでに世界にネットワークを広げた今日ではお膝元の香港での組織力には押して図るべきであろう。 これは蛇頭が今ほど脚光を浴びる前の話だが、ある友人のご主人が香港のとある一流ホテルのショッピングモールに出店した折、さっそく例の「黒社会」の筋からご挨拶があり、「この立地、広さ、商品だったら売り上げはコレ、利益はコレ、だからうちに払ってもらうのはコレ」と非常に近い数字を提示したと言っていた。 香港のストリート・レベルの店舗の80%以上がこうした黒社会とお近付きになっているといわれている。 またある繁華街にできた大型ショッピングモールのテナント担当者がある日から突然連絡が取れなくなり、「黒社会」とのお付き合いをお断りしたため半殺しの目に合っのではないかという業界の噂が流れたこともあった。 彼らは日本のやくざのようにそれと分かる格好をしていない。 タクシーの運転手もやくざがらみの輩が多いからまともに喧嘩しない方がいいといわれている。
この「黒社会」のオフィスには必ず「関公」の像が祭ってあるのだそうだ。 「関公」とは三国志時代の将軍、関羽のことでその人徳と組織力が彼らの敬うところだ。 面白いことに同じ理由でこの「関公」像は香港警察にも祭られているということだ。
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6月14日
「 6.4から10年」
10年が過ぎた。 信じられない光景がテレビで次々と生々しく映し出されたあの日から。 政治改革案が西より
過ぎると非難され失脚したHu Yaoban(コ.ヨウホウ)の死去に伴い彼の再評価を求めた学生集会に端を発した
民主運動。 武力行使、無差別発砲、怪我人を運ぶ自転車、暴徒と化し戦車に火を放つ人たち、そして戒厳令が
敷かれ人っ子一人いなくなった白昼の天安門広場に居並ぶ戦車の前に突然現れた一人の若者。 それを避けよう
とする先頭の戦車、変更した進路を更に阻む繰り返しを世界中の人が固唾を飲んで見守った。あの若者はその後
どうなったのだろう。
6.4の10周年を記念してサウス・チャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)では3日間特集を組み以下の
ような記事を掲載した。
事件直後ABCのインタビューに応じた人は反革命罪で10年の刑を受け歯を9本失い心臓病を悪化させ94年
に特赦で出所したが元の職場二は戻れず失業中。 6.4はもうこりごり。
手流弾にやられた人を助けようとして戦車に巻き込まれ両足を失った当時の体育課学生。 その後当局から繰り
返し取り調べを受け戦車に挽かれたことを口外しないよう圧力をかけられ拒否したため職を奪われたが、車椅子
の生活になってからも北京に留まりスポーツを続け1992年広州で行われた全中国身体障害者陸上競技大会に
北京代表として参加、金メダルを2つ獲得。
19歳の高校生は歴史的な瞬間をカメラに収めようと出かけ、銃撃に合い弾は頭部を貫通。 負傷した彼を病院
に運ぼうとした市民は軍隊に阻止され「暴徒」を助けようとするものはこの場で射殺すると脅かされた。
天安門事件の犠牲者は数百とも千に登るともいわれているが現在の体制下では正確な数字を把握することが出来
ない。 SCMCによると10周年を迎えた今年、犠牲者の家族によるネットワークで死亡者155名、負傷者
65名の数が集まり、その中から27名が公表された。 犠牲者の多くは逃げる時に背後から撃たれたという。
危険を犯して訴えた100を超す犠牲者やその家族に対して北京政府は全くのでっち上げとして10周年の前日
再び却下した。 彼らは中国に正義がないのならハーグの国際裁判に持ち込む用意があることを示した。 Zhu
Rongji (朱溶(金偏)基)は冗談か10周年のことを忘れていたと言った。 軍による鎮圧は社会の安定
のため必須であったこと、西側に躍らされて政府転覆を企む運動は必ず失敗に終わるなどと今だに当時の姿勢を
変えていない。
当時中国への返還を8年先に控えていた香港市民にとっても足許の地面が割れるような衝撃だった。 北京でお
こることなら返還後の香港でも起こり得る。 もともと共産政権をを逃れ、あるいは自由と豊かな生活を求め香
港に流れてきた人たち、普段 「大陸」と言って少しバカにしているふしのある香港市民がこれほど「祖国」を
強く意識したことはないだろう。 そして新界のボーダーから戦車の群れが押し寄せてくることも脳裏に浮かん
だことだろう。 あちらこちらに黒の横断幕が張られ悲痛な叫びが街に響き、多くの人々が喪に服して黒い腕章
をつけた。
それから10年。毎年ビクトリア・パークで記念集会が行われている。 年を追うごとに規模は小さくなった
が、もみ合うことも無く平和な家族連れが目立ち、定着した感じがする。 10周年記念の今年は7万人のキャ
ンドルに灯が灯った。 風雨にたたられた昨年の2倍近い。 北京では一般住宅向けのCNNや西側の放送が中断
されたり民主・人権運動家の家庭の電話が切られたそうだ。 最重要学生リーダーとして11年の刑を受け、昨
年のクリントン訪中に先立ち釈放されたワン・ダン(王丹)は現在ハーバード大学に席を置く。 彼のお母さん
の家も午後になって電話が通じなくなったが彼女のメッセージは携帯電話を通じてビクトリア・パークに集まっ
た人たちに伝わった。 獄中にいるワン・ダンの様子はこのお母さんを通じて報道されてきた。
現在中国の土地でこうした集会ができるのは香港だけだ。 天安門広場は建国50周年にあたる今年完成予定の
改修工事のためということで閉鎖され、警察は反体制派を拘置したり私服警官を張り巡らせこの日に備えたとい
う。 北京以外の都市も同様だが地味な服装の胸に白い花をつけたり蝋燭に灯を灯したりの静かな行動がかえっ
て訴えるものがあったそうだ。
香港政庁も北京政府の神経に触れることはしたくない。 大物活動家が正式に香港を訪れたことはないし中学校
の歴史の教科書にもほんの短い記載があるだけ。 返還を控えたマカオでは今一段と神経が北京の方に向いて言
うようだ。 当時の追悼集会では人口の三分の一が集まり、Wu'er Kaixi(ウー・アル・カイシ)を始めとする学
生リーダーの逃亡ルートにもなっていたのだが、その後年々忘れられつつあるようだ。 マカオ政庁もポルトガ
ル人から現地化が進み当時運動を支えていた若者たちは今役人として安定した生活を送っているということもあ
るだろう。 香港と違ってビジネスもさほどなく北京外交にはなにかと力が弱い。 ワン・ダン(王丹)は今回マ
カオで行われるセミナーに参加することになっていたが直前になって取りやめになった。
香港返還前夜の6.4記念日にも香港市民には特に悲痛な思いが会ったようだ。 One country two system のも
と民主主義と自由は保証されたが当時の総督クリス・パテンと北京は連日喧嘩腰で最後の交渉はもつれにもつれ
た。 もともと植民地に民主主義などは存在しないから返還直前になって突然民主主義を大上段にかざす彼の姿
にはしらけるものがあったが英国は汚職のない洗練された政治制度など数々の置き土産を残してくれた。
長年付き合っている中国人の友人たちとその頃食事に出かけた。 中華料理店の個室にはたいていカラオケが入
っており当時流行っていた歌に彼女たちが「6・4の歌」と呼ぶものがいうのがあった。普段はカラオケなどに
は見向きもせずにひたすら美味しいものを楽しみおしゃべりに興じるのであるがこの日は誰からでもなく何時の
間にか全員で歌っていたのが思い出される。
中国のことを知っている人たちは言う。中国の指導者達は私たちが思っているよりずっと大人ですよ。事件が大
きくなったのは殆ど暴徒化した野次馬たちによるもので、武力行使なくしては鎮火出来なかったこと。 西側の
言う人権、民主を12億の人口を抱える中国にそのまま当てはめるのは難しいと。 そうかもしれない。 10年
前から中国国内の人の身なりは格段に良くなったし物質的に豊かになった。 しかし汚職は相変わらず、教育や
市民度等多くの問題は進展していない。
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6月13日
「NZ学校訪問の旅 シドニー編 (3)」
長男の学校出は土曜日は午前中スポーツがあり休みではなかったがアダムとローランの学校もそうだ。 この日
アダムはクリケット、ローランはソフトボールの試合があった。 次男はブライアンとアダムの男子校に、私は
リンとローランの女子校を見学しに行った。
ローランの学校はリンの母校でもあり、香港に行くまで教鞭をとっていた職場でもある。 帰国してからもこの
学校で週4日働いている。 彼女は香港のインターナショナル・スクールでも教師として働いていたためウィー
クデイに行われている自分の子供の運動会や発表会にはいつもブライアンがバリッとしたダブルのスーツで見学
に来ていたものだ。 リンは小学校の時ブリスベンからやってきてこの学校の寄宿舎で生活を始めたのだそう
だ。規律がとても厳しく週末に家族の面会があっても差し入れは果物かフルーツケーキしか許されていなかった
こと、それを知らなかったお母さんが遠いブリスベンからわざわざ手作りのチョコレートケーキを持ってきてく
れたのに先生に取り上げられてしまい悲しい思い出があることなど話してくれた。 それは昔の話。 名門校の例
により緑に恵まれた広大な芝生の敷地、赤煉瓦の建物、いかにもお嬢様風の制服などは変わりがない。 リンの
時代では考えられなかったことだがアジア系の生徒が目立つ。 オーストラリア生まれの中国系移民の子供はよ
く勉強するのでトップクラスを占めるのだそうだ。
一旦帰宅して今度はブライアンの車で男の子達とヨットクラブで昼食をとりぐっと北上したAvalon Beachで子供
たちは波乗りを楽しんだ。オージー達も海がすきであちこちにヨットクラブがあるのだそうだ。 香港のクラブ
のようにおすましした感じじゃなくて庶民的なのがいい。 だけどヨットはどれも立派だ。 空は真っ青、水もき
れい、素晴らしい海岸、土曜日の午後というのにさほど人もいない。 日差しは強いが風には秋の気配が感じら
れる。 この海岸、実はあのベイ・ウォッチャーの撮影候補にあがり交渉も始まっていたのだが地元民の反対に
あえなく不発に終わった。 観光誘致になるだろうが撮影期間中地元民が使えない。 残念がる人あり、ほっとす
る人あり。
再び帰宅してしばしプールサイドで冷えたシャンペンをば。 おつまみはオージー・チーズになんと薄焼き煎
餅。 お米はお手の物だしお煎餅もオーストラリア製、定着しているのだそうだ。 一昔前のオーストラリアの食
生活はワン・パターンだったがいろいろな移民を受け入れ文化も食べ物も随分多様化された。 カプチーノはど
こで飲んでも美味しい、サンドイッチはイタリアンスタイルが美味しそう。 東欧の移民も多くトルコの食べ物
も多く見かけた。
ブライアンの話によると最近では黒人政権に変わった南アフリカから白人移民がパースに押し寄せ公立学校で南
アフリカの言語アフリカーンが教えられることになったらしい。 アフリカーンは国際言語でもないしちょっと
極端な気がするが、ま、いいか。 日本語を上手に操るオージーの多いこと。 ニュージーランドからも職を求め
てやってくる。 ニュージーランドとオーストラリアは相互乗り入れ、つまりお互いの国を行き来するのにビザ
が不要なだけでなく全く同じ社会保証を受けられるのだ。 ニュージーランドもオーストラリアも地理的に世界の
先進諸国から大きく離れており近隣、特にアジアを取り組まなくては経済の活性化を図れない。 静かで穏やか
なニュージーランド、逆に言えば活気がない。 最近移民の規制を緩和した。
コソボ難民の第一陣がオークランドに到着した。 難民センターは長男の学校の側にあり、マオリ文化で歓迎し
ようと学校から慰問団が訪問した。、マオリの民族衣装を纏いハッカを披露した生徒の中には香港生まれ日豪ハ
ーフのケンゾもいた。
完
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6月10日
「NZ学校訪問の旅 シドニー編 (2)」
朝食を摂りに降りたホテルのコーヒーショップは表の通りに面しており、ガラス窓から差し込む太陽が眩しい。
今日も暑くなりそうだ。 元は小麦粉工場だったらしいこの煉瓦造りの建物のコーヒーショップの内部にはビク
トリア時代の古い写真があちこちに掛かっていて往時の暮らしを偲ばせる。 泊まり客は年配の白人カップルと
中国系ファミリーが多い。 日本人サラリーマンの夫はまとまった休みを取らないので我が家で家族旅行という
と大抵母子パターンになってしまうのだが、自分たちがあの人たちの年配になった頃二人とも元気で仲良く旅が
できるといいな、と久しぶりに夫のことを思い出した。 荷物を預かってもらいホテルを一旦チェックアウト。
今日から2日間の金曜と土曜の夜は郊外にあるアダムの家に泊めてもらうことになっている。
次男の旧友アダムのお父さん、ブライアンと夕方街で落ち合うまでの間ダーリン・ハーバーをうろつくことにし
た。 ウォーター・フロントに出て「コ」の字型の港の対岸後ろに広がる青い空、そしてその下にそそり立つ高
層ビルの林に久々の都会を感じほってしてしまった。 ここからクルーズに出たり、電力博物館、海事博物館、
水族館などを訪れる遠足の子供たちや観光客で賑わっている。 ダーリン・ハーバーには洒落たオープン・カフ
ェや明るいモダンなショッピング・センター、ホテル、屋内テーマパーク、コンベンション・センター、公園等
があり若者向けのスポットという感じがする。 私たちは余り時間がないのでまずミニ・トレーンに乗り込み30
分ほど港の周りをぐるっと1周して観光気分を盛り上げ、海事博物館ではキャプテン・クックのオーストラリア
発見から多くの移民たちを運んできた海と人々の関わりに思いをよせ、大型3D映画館IMAXで恐竜の映画を
見学。 最後に冷やかしに入ったヘイ・マーケットでシドニーの観光スポットとコロニアル風テラスハウスの写
真集を安売りしていたので自分用のお土産にした。 八百屋の店先にはさすがに中国人の移民が多いだけあって
並んできる中国野菜はもう香港のそれをしのぐほど。 新鮮で豊富な生鮮食料に我が家が普段香港で食べている
お米もオーストラリア産だったのを思い出した。
夕方近くブライアンと合流し彼の家に直行。 Terramura (タラムラ)という彼の街はオーストラリア
の先住民族アボリジニがつけた地名。 ニュージーランドではポリネシアから渡ってきたマオリの地名が多かっ
たが、オーストラリアでは6万年ぐらい昔からその頃地続きだったアジアから渡ってきたアボリジニがつけた地
名が多い。 狩猟民族の彼らは白人の移入で土地を追われたり彼らがもたらした疫病等で人口が激減したが近年
になって市民権を取り戻すとともにその文化が見直されている。 狩りに使うブーメランのアートやユーカリの
木で作ったディジュリヅゥーの音楽などがお馴染みのところだ。
途中渡ったシドニー・ハーバー・ブリッジでお揃いのグレーのオーバーオールの一行を見かけた。 橋のてっぺ
んまで登るツアーがあるのだ。 心臓の弱い人、妊婦、酒気を帯びた人は勿論だめだ。 出発前に簡単な健康診断
をパスした人はカメラや手荷物一切を預け、一列になった先頭と後尾につくガイドの案内をヘッドホンで聞きな
がら3時間かけて上り下りするのだ。 料金はA$80というから随分高い気がするが気持ちよさそうだ。
ブライアンの家は2年前に来た時は増改築中だったが完成した今まさに彼らの情熱の結晶のようだ。 おそらく敷
地1万平方フィート、建物はその半分といったところだろう。 中国のアンティーク家具や置物がオーストラリア
のアートとすっきりしたヨーロッパ家具と内装にうまく溶け込みまことに居心地が良い。 家の前と後ろには手
入れの行き届いた広い庭が広がりしゃれたガーデン家具がさりげなく配置されており、こういうのを邸宅という
のだろうな。 しかし彼らも香港在住中は我が家と同じ団地に住んでいたのだが、エライ差である。 次男とアダ
ムは久々の対面の嬉しさをストレートに表わし13歳のお姉さんローランと3人で早速庭のプールに飛び込んだ。
アダムのお母さんリンと私がプールの向こうに沈む美しい夕日を眺めながらテラスで冷えたワインとおしゃべり
を楽しむ間、ブライアンはオジー・ハズバンド(おじい、にあらず)らしくかいがいしくBBQを焼き子供たち
に食べさせ、その間女性陣とも話を合わせ、ドリンクを勧めることも忘れない、もちろん自分の分も。 オース
トラリア人は自分たちのことをオジー、モスキートー(蚊)のことをモジーなどと言葉をうんと短くするのが好
きなようだ。 偉大な農業国、オーストラリアは田舎だから長い間口を開けてしゃべっているとブンブン飛んで
いる蝿が口の中に入ってくるから、などとオジー・ジョークを言うが、自分の国のことを「Everybody knows
it's down there but nobody cares!」なんてガッハッハ笑っている人たちだ。
今回アダムの家で黒猫Zenとご対面した。 この家に出入りする野良猫をアダムが我が家の次男の名前をつけ
て皆で可愛がっているのだ。 この猫、真っ黒で歩き方や佇んでいる姿などとってもセクシーでエレガントなの
だが、なかなか優秀なハンターでネズミはもちろんのこと屋根の風見鶏をへし曲げたポッサムや木のてっぺんに
止まっているカクドゥ(大きな野生オウム)などの獲物を掴まえてきては瀕死状態にして誇らしげにご主人への
貢ぎ物として玄関先に置いておくものだからリンは気持ち悪くて困っている。 この辺は緑の多い高級住宅地だ
が野生動物による家屋の被害が少なくないので黒猫Zen結構役立っているのだ。
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