目 次
【12月23日号】
【10月18日号】【10月11日号】【10月5日号】
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12月23日
「映画ー1」
香港の映画館はどこも必ず全席指定制。料金は概ね一律HK$60。
狭い密集した土地で手軽に楽しめる限られた娯楽の一つ。
しかし最近では海賊版CDなどがHK$10とかHK$15等で氾濫しているから映画業界も追いつめられているようだ。
火曜日が映画の日でどの劇場も半額になるのもそうした努力の現れなのだろう。
私が加入している二つのシネクラブでは毎月次の月に上映される映画の小冊子を送ってくれる。
見たい映画の切符は街のチケットオフィスで気軽に購入出来る。 また電話かファックスで予約し小切手かクレジットカードでも支払いが出来、当日の上映時間まで預かってくれるし希望すれば郵送もしてくれる。
まことに便利。 普通の商業映画館でも電話で自動予約してクレジットカードで購入出来る所が多くなった。希望の座席エリアも指定出来る。
シネクラブの一つは九龍は油麻地 (Yau Ma Tei)にあるブロードウェイ・シネマテック。
ここはUrban Council(市政局)が援助して映画興行会社と造ったシネプレックス。
油麻地自体は東京でいえば大塚みたい(現在の大塚はどうなっているか知らないが)に猥雑で非常にローカル色の強い街。
表通りのネイザン・ロードには漢方薬や乾燥海産物店、安物の衣料品店等が並び夜ともなると裏通りは屋台でひしめく。
有名ブランドのニセモノなどをを堂々と売っている女人街もすぐ近く。
この辺りにも再開発の波が押し寄せているが脇道に入ってかろうじて残っている古い崩れかけたようなお寺を通り過ぎると大正時代を思わせる油麻地警察署の筋向かいに新築の団地が現れ、その一角にあるのがブロードウェイ・シネマテック。
鉄道の駅をイメージして造ったというちょっと変わったこの建物にはカフェやハンバーグショップ、映画関係の本やCDを揃えた本屋などが入っていて、街の映画館で上映しているヒット作の他に各国のちょっと変わった筋のものも上映している。
そして一番いいのが足許もゆったりしたハイバックの快適な座席。
しかし、予算が限られているとかでPRの仕方にイマイチな所があり場所も遠いのでなかなか足が向かない。
ある日偶然新聞の映画特集で発見したファッション映画特集は気が付けば残念なことに半分終わっていた。
たとえば「ファニーフェイス」に登場する若き日のオードリーヘップバーンが次々と紹介するジバンシーのエレガントなファッションをはじめ「ミシシッピー・マーメイド」で登場するこれまた若き日のカトリーヌ・ドヌーブのサンローラン、「アンナ・クリスティー」ではグレタガルボが当時一世を風靡したマニッシュでセクシーなファッション、「アメリカン・ジゴロ」
ではリチャード・ギアが80年代のアルマーニのファッションを、 「アニー・ホール」ではダイアン・キートンが70年代のラルフローレン、「リキッド・スカイ」では80年代初頭のニューヨークポスト・パンク過激ファッションなど実に楽しかった。実は香港のファッション関係のスポンサーもついて立派な小冊子まで用意されていたのに郵送する資金と人手がなかったのだそうだ。香港ファッションのプロモーションもロビーの片隅に設けられていた。
このシネマテックで最ロングランになったのは恐らく日本の映画「渋谷24時間」英語題「Bounce Ko Gals」。 半年ほどは上映していたと思うが一時はシネプレックス3つで同時上映しておりそれでも長蛇の列をなしていたほどの人気。
中国人の友達は見に行ってよかったと言っていたが彼らはどういう所に共感を覚えたのだろう。
もう一つのシネクラブは湾仔にあるアート・センター。 ここはシネマッテックのある油麻地とは対照的で生活の匂いがしないウォーターフロント。
返還式があったコンベンションセンターや6つ星ホテル、グランドハイアットを始め超高層ビルが立ち並び強いて言うなら西新宿的な環境。
しかし映画専門の劇場ではなく小演劇劇場で無理矢理映画を見せているといった感じで、座席も小さくて座り心地はよくないのだが毎月送られてくる企画案内が良く出来ていて行く気にさせてくれる。
毎月違う国の特集を組み一つの映画を2回しか上映しない。ちなみに今年はフランス(ヌーベルバーグ)、オーストラリア、韓国、ポルトガル、イタリア(フェリーニ特集)、黒沢監督が亡くなった時は黒沢特集、そしてオーストリア・ドイツ、北欧、ヨーロッパと枚挙にいとまがない。その合間にも香港作品や世界の名画を適宜ちりばめてきめの細かいこと。
一方、街の映画館で上映されているのはアメリカものと香港ものが殆どで2対1ぐらいの比率で香港ものも健闘している。たまに日本映画も大当たりして最長上映記録を達成したのが「木村家の人たち」。あるアート系の映画館で一年半ぐらいぶっ続けで上演されていたように思う。
こちらでは「Yen Family」と題されてお金大好きの香港市民に大いに受けたようだ。
もういいかげんに打ち切りになるだろうと私も行ってみたが人の入りもよく椅子から転げ落ちるほど笑ってしまった。だって、日本語全部よく分かるんだもん。
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10月18日
「医師・病院 ― 3」
次男の出産にあたっては友達や情報を得、経験も積んでいたので意気込みも新たに医師も病院も総取り替えし
た。 今は引退してしまった老イギリス人医師に出会えたのを幸運に思う。 少しカリスマ的な所があり患者さん
の信頼は絶大。 こじんまりした診療所は他の内科医師と共同経営で専任の看護婦さんは手際が良くいつもにこ
やかで抜群に英語が上手い。 診察室も一つしかなく一対一の相談にはじっくりと時間をかけてどんなことにも
納得が行くまで説明を受けることができ毎回の診療の後には安心と満足感が残る。 いろいろな選択余地を説明
した後でこちらの意向を聞き好きなようにさせてくれるのもうれしい。
この医師が提携している病院はピークにあり今世紀初め建てられたエドワード調の建物。以来、何度も増改修工
事を経ているがアーチ型の飾りが施された天井といい、ビザンチン風模様のタイルの床といいイギリスにとって
は古き良き時代の面影をそこここに残していて味のある建物である。 入院中ナース・ステーションでこの病院
についての本を売っていたので記念に買って読んだが、写真が多く当時のファッションといい建物をぐるりと囲
むテラスといい非常に優美な生活に見えるが医学が発展しておらず、しかも亜熱帯気候で衛生状態の良くなかっ
た当時に香港の人々はいろいろな風土病に悩まされたようである。 第2時世界大戦中は日本軍に接収されてい
た事もありいろいろと血なまぐさいエピソードを秘めていることから旧館には誰もいない筈の夜更けの廊下に日
本軍人がカシャ、カシャ、とサーベルの音を立てて歩く音が聞こえる等という話もベテランの看護婦さんから聞
かされた。
この病院は山の上にあってビジネス街から離れている為患者数が少ないのか看護婦の態度にも余裕があり全員と
ても親切だ。 1987年の当時看護婦はイギリス人と中国人半々ぐらいで中国人の看護婦もイギリスで訓練を
受けたとかで全員きれいな英語だった。 とりわけ中年美人のイギリス人助産婦さんがよかった。 香港に着いて
真っ先に広東語を習いに行ったがさほど上達しないまま打っちゃってしまっていた私にとって買い物やどうでも
いい話ならともかくこういう真面目な話は全くお手上げだ。 とにもかくにも下地がある英語では言葉の問題を
さほど意識しなくてよいということは本当にありがたいことだ。 が、それよりも良かったのは前の時の病院と
は良い意味で姿勢が違っていたこと。 こちらは二度目とは言えやはり緊張するものだ。 産科病棟に担当の看
護婦を到着を告げるとゆったりとした病室に案内され、そこで入院手続きを手伝ってもらった。 海を見下ろす
窓にはアットホームな感じのプリントのカーテン、床もメープル材のフローリングで暖かい感じがする。 書類
にほぼ書きおわったところで看護婦さんの「支払い方法はどうされますか?」との問いに夫の口から出た 「I
Dカード」に一同全員きょとんとしその後大爆笑。 クレジットカードと言うつもりだったのが彼も緊張の余り
舌がもつれてしまったのだろう。 分娩室にも花柄の衝立てがあったりして冷たい感じがしない。
長男の出産が速かったので次男はさぞかしと踏んでいたのだが、これがなかなか出てこない。 医師と助産婦さ
んは点滴の袋を持ってきて「これは陣痛促進剤です」「 硬膜外麻酔を使いますか?」「自分で一番楽な背中の
角度探してみては?」と調節に協力してくれたりと逐一説明しながらあたってくれるので本人にも張り合いが出
てくる。 助産婦さんはその間にも傍らに座り私の手を握って世間話などで緊張をほぐしてくれた。 こうした心
配りは実に嬉しく力が湧いてくる。 立ち会っている夫にも「もう少し時間がかかりそうだから今のうちに夕食
を取っておかれたらいかがですか」等と気を使ってくれた。 その時の夫のほっとした表情!
多少時間はかかったが今回も安産。 しかし分娩室から自分の部屋まで「歩いて帰りますか?」と聞かれたのに
はいささか面食らってしまった。結局中間をとって車椅子で帰ったような気がする。 この病院では出来るだけ
動いて早く日常生活を取り戻すことを勧められた。 赤ちゃんも自室で殆ど一緒に過し、翌日からお風呂に入れ
たり、フィジオセラピストが回復を促す体操指導に来たりと毎日が忙しくあっという間に回復してしまい自宅に
戻る途中で友人の家で開かれたクリスマスパーティーに出席までする元気さであった。
病室にはテラスが付いていて赤ちゃんを抱いてリパルスベイ方面から昇る朝日に胸震わせ、島々の向こうの空を
オレンジ色に染める夕陽に手を合わせたくなる至福の1週間であった。 あの日々の感動はその後の慌ただしい
暮らしに追われて忘れがちだがが折りに触れて思い出す大切な宝物。 あとわずかに残された子育て、何かにつ
けて後悔が残らないでもないがすくすくと育ってくれて。
完
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10月11日
「医師・病院 ― 2」
香港の医師は大抵ビジネス街に自分の診療所を持っていて手術や入院の際には提携している病院に患者を送り込
む。 患者が入院中は毎朝自分の診療所に出勤する前に病院先の患者を診察し、場合によっては夕方にも様子を
診に行く。 1983年香港に到着して間もなく毎日気分が優れないのでもしやと思って紹介してもらった産婦
人科の医師は当地では名医として知られ経験、腕も抜群だった。 しかし定期検診の際予約しているのにも関わ
らず、必ず1時間、時として2時間待たされることにはつわりやお腹が大きくなって背中の痛みを持つ身にはつ
らかった。 この医師に限らず香港の中国人医師は予約と言っても30分の間にとても不可能な数の患者を入れ
るのでどうしても時間通りに診察できない。 急な手術や出産が入ることもあったが午前中から待たされて挙げ
句の果てに午後3時に出直すように言われたこともあった。 一方、多くの患者を効率よくさばくために看護婦
さんを大勢抱えて診療所内に二つ設けた診察室で交互に患者を診察していた。 しかし日本の産婦人科のように
医師と患者の間のカーテンなどは無くお互いの顔色や表情を見ながら診察してもらえるのは安心するし、コンサ
ルテーションに入ると初心者にもよく分かるようにとことん説明してくれるし精神面や生活面で落ち込んでいる
時でもでも力づけられた。
この医師、名医だけあって早々と性別を言い当て、予定日2週間前の検診では「午後6時までに生まれますから
今からご主人とゆっくりランチでも食べに行って3時頃に入院して下さい。」と言うではないか。どうしてそこ
まで分かるのかは経験によるものだとかで、「もし外れたら分娩費用いらない。」とまでのたまわったのだ。
はたせるかな、入り口ロビーの受け付けで入院手続きを済ませ、分娩室に入って30分ほどで陣痛促進剤も使わ
ず陣痛を感じる間もなく5時55分にあっけなく生まれてしまい私はすっかり拍子抜けしてしまった。 超安産
であったことには本当に感謝している。 背骨の髄幕に入れる硬膜外麻酔は痛みが激しくなるようならと依頼し
てあった。 しかし緊張の余りコチコチになって冷静に判断できない状態でドサクサにまぎれるよう注射されて
しまったのが残念に思われる。 あんなに短いお産だったら必要ないのだが。 この医師は絶対に患者に苦しま
せないのでも有名だったのだ。 それに、この医師、無事出産を終え分娩室で立ち会っていた夫に「あなたが一
番疲れたみたいですね。」とジョークでその場を沸かし初めての親子写真を撮ってくれたりもした。
それより気に入らなかったのはひどいポルトガル訛りで絶望的な英語をしゃべる修道女の助産婦が出たり入った
りしながらいろんなことを言ってくれるのだが、それがなんとも疲れた。 こっちはそれでなくても大変なのだ
からそんなややこしい英語に付き合っていられない。 その他にも休養を取る方が大事だとなかなか赤ちゃんに
会わせてくれなかったり、お風呂の入れ方を最後の日まで教えてくれなかったりと、こちらの期待するところと
違いイライラしたものである。 後で分かったのだが当時のこの病院は赤ちゃんをぐるぐる巻きにしたり産婦に
は出産後1ヶ月は水に触れさせないといった古い中国的なスタイルが残るタイプだったようだ。 生まれたそ
の日から毎日往診してくれた小児科医はカナダ仕込みの新しいスタイルを取り入れているので病院のスタッフと
何かと衝突しているようだった。 彼らは忙しいのだろう、なんだかロボットのように扱われたような気もしな
いではない。 もう少し前向きな姿勢で取り組め事が出来たような気もする。
とはいえ病院での生活はなかなか快適だった。 病室は広く中に付いているバスルームもゆったりしていてタオ
ルも何枚か毎日取り替えてくれるし、暇を持て余しては一日に何度もシャワーを浴びていた様な気がする。 完
全看護は徹底していてベルを押せば看護婦か廊下に控えているお手伝いのおばさん(中国語では「アマ」と呼ん
でいる)が飛んでくる。 お産費用は保険が効かないので100%自己負担。 一生にそう何度もあることではな
いし、この際贅沢して個室を利用した。 朝は病室と香港提督の公邸の間にある動物園の鳥と猿の鳴き声で目覚
め、ベッドまで運ばれてくる暖かい3度の食事をゆっくりと頂き、午前と午後のお茶とお菓子まで運ばれて来
る。 さながら女王様のような気分であった。 夫も雲を掴むような気持ちで9ヶ月間待ち続け、赤ちゃんに会え
た感激で毎日雲に乗ったようにふわふわの気分であった。 そして昼休みに仕事後にとシャンペンやらワインや
らビールやらを持ち込んできて私たちは連日病室で祝杯をあげ、しみじみと幸せをかみ締めたものだ。 母乳を
介して新生児の長男にも飲ませていたわけだ。
こうしてどうにかこうにか自信を取り戻し退院の時には病院内のチャペルで無事に元気な赤ちゃんを授かったこ
とに心から感謝のお祈りをしたものだった。 元来宗教や神のことなどとは無縁の生活をしているのにこういう
場面に出会うと不思議と敬謙な気持ちになってしまう。 空の色、木々の緑、吹き抜ける風までもいとおしく昨
日までとは全く違った世界に踏み入ったようだった。 神様、本当にありがとう、素晴らしいプレゼント、これ
からは毎日感謝の気持ちを忘れないで愛に溢れた悔いのない人生を全うします、とか誓ったような気がする。
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10月 5日
「医師・病院 ― 1」
先ごろ思わぬ事故に居合わせ腕を骨折した人に付き添って救急車で公立の救急病院に行く経験をした。 救急車
なんて生まれて始めての経験であったが、香港の救急医療、思ったほど悪くない、いや、むしろよくやっている
という印象を受けた。 香港の公立病院では在住していることを証明するIDカードがあればごくわずかな料金で
診察治療を受けられる。 しかも救急患者の場合は全く無料だ。(もっとも経済的にも制度的にもパンク状態な
ので医療制度改定の動きがある。)しかし大量に押しかける病人や怪我人に対応すべきスタッフの数がとても足
りないので重症の人でも長時間待たされたり医療ミスがあったりとあまり良くない噂を耳にすることもある。
友人のお兄さんで肝臓ガンの手術の順番を待っている間に手遅れで亡くなってしまったとも聞いた。
この骨折氏は不幸中の幸いにも待たされることも殆ど無くすぐに応急処置を受けレントゲン写真を撮った後手術
が必要ということになったが、あいにく日曜日で骨の専門外科医が居合わせていなかったので他の病院に転院と
いうことになりすぐ手筈が整った。 ところが駆けつけてきた奥さんが公立病院のあまりよくない噂を思い出し
私立病院に転院を希望した。 救急医は「選択の自由」を認め、救急車に希望の病院へ移送する指示書と転院先
の医師に渡す怪我の内容のメモを渡してくれた。 しかし詳しいカルテとレントゲン写真は渡してくれなかっ
た。 転院先の私立病院の骨専門外科医も骨折の状態、手術内容、その後のリハビリ等詳しく説明した後その日
の何時だったら手術の準備が整うが、納得の行く結果を得るためには他で調べた上で決めてもよいと薦めてくれ
た。 結局御本人は納得してその日の夜手術を受け、しばらくサイボーグのように腕の外側に金属のロッドをつ
けていたがまもなく無事回復し後遺症も無く一件落着。
我が家の長男も同じ指の間接を3回も骨折しその度に当時この同じ公立救急病院の骨の専門医に診てもらった経
験があるが連日忙しいスケジュールに違いない医師なのに毎回納得の行く説明を丁寧にしてもらいありがたかっ
た。 そして上記の骨折氏の件では無料の公立病院でも有料の私立病院でも本人が納得するまで状況の説明を丁
寧に与え更に最後に必ず選択の余地を与えることに好感を覚えた。 本人が安心して納得できる治療を受けるこ
とが一番大事だ。
私自身も香港滞在中のこの16年間に2回の出産を含め合計3回入院の経験がある。 長男の出産で入院した病
院では英語を解する看護婦が少なく産婦や新生児の扱い方がこちらの期待するものと違っていたので自宅に帰っ
た後に控えている初めての育児に不安を感じ必要以上にマタニティーブルーに陥ってしまった。
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